銀幕

僕らは今、映画を作っているところ。
公開できるかどうか分からないけど、ロンドンのアルバート・ホールでやったライヴを
撮影したよ。
                             -ジミー・ペイジ 1970年2月-

というように、ごく初期の段階からペイジは自分達のライヴ・パフォーマンスを後世に
残すことを意識していた。
現在のようにロック映像が世にあふれかえるずっと以前のことである。
けっきょくこのプロジェクトが結実するまでに7年という歳月がかかったが、完成した
映画「永遠の詩」は待ちに待ったファンが十分に納得できる作品だった。


ツェッペリンの映画を完成させるにあたってメンバーとグラント以外にジョー・マソット
ピーター・クリフトンがキーマンとなった。

マソットが初めて彼らに遭遇したのは1972年のバス・フェスティバル。
15万人を集めたこのイベントには他にバーズサンタナジェファソン・エアプレイン
ドクター・ジョンカントリー・ジョー&ザ・フィッシュフランク・ザッパフロックなどが
名を連ねていた。
ツェッペリンの熱演には大きく心を動かされたマソットだったが、このバンドが彼の
生涯でもっとも重要なプロジェクトの中心的存在になることは予感していなかった。

グラントツェッペリンの出番を最大の照明効果が得られる日没に合わせるため、
彼らの前に出演していたフロックにアンコールがかからないように機材の電源を
抜いてステージから追い立ててしまった。
かくしてツェッペリンは太陽が沈むのとほぼ同時に「移民の歌」を演奏し始めたの
だが、マソットは「あれはほんとに驚異的な出来事だった、プラントの後ろには沈み
つつある太陽、ギグ全体が異次元の出来事みたいだった」と語っている。

この忘れがたいサンセット以前からマソットはロックと映像の融合にかなりの経験
を有していた。
彼が初めてロックを取り入れたのは西部劇、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ
フューチャーした「ウエスタン・ロック・ザカライア」であり、続いてジョージ・ハリスン
との共作で難解な実験映画「不思議の壁」を発表している。
その後、ペイジを訪ねるようになったマソットは、73年初夏には映画を製作する
可能性について話し合うようになった。
彼はここ数年、事務所に持ち込まれた映画の企画とは異なるヴィジョンを持ってい
たのである。

マソットのヴィジョンとは・・・

 4人のメンバーをそれぞれ一個人として描き出し、その4つのセクションをうまく
 映像に織り込みたいと考えていた。
 ペイジはこう言ったよ、「もう一本、ウッドストックみたいな映画を作ったところで
 なんのメリットもないだろう」って。
 「ウッドストック」も「バングラディシュ」もどちらも16mmのドキュメンタリー。
 「レット・イット・ビー」ですらこのカテゴリーに入ってしまう。
 「ヤー・ヤー・ヤー」や「HELP!」が撮られて以来ライフ・スタイルを意識的に描こ
 うとした映画は皆無だった。
 ペイジも同じ考えだったと思う、彼も普通とは違う何かを求めてたんだ。

好意的な感触を得て正式なゴー・ザインを心待ちにしていたマソットだったが数日
後、彼のもとにやってきたのは悪い知らせだった。
ペイジから「このツアーを映画にするのは難しそうだ」との連絡を受けたマソット
しばらく他の分野で才能を発揮していたが、そこに突然グラントから連絡が入る。

 来てくれ、映画をつくりたいんだ。

不意をつかれたマソットは大至急クルーを招集し米国に渡った。
演奏シーンは全てニューヨークで撮影され、映像の仕上がりを考えて16mmでは
なく35mmが使用された。

バンドは当初から時間をかけて配給業者を説得する代わりに自分達で製作費用
を出すことにした、レコードと同じく映画も自身のプロデュースのもとで作成される
べきものだったのである。
それにこれは危険な賭けではなかった、彼らの映像をフューチャーした作品が
赤字になる可能性はほとんど皆無だったからである。

マソットによると、

 ただのコンサート・フィルムにするつもりはなかった、メンバー一人一人をきちん
 と見せたかったんだ。
 といってインタヴューを入れるような昔ながらの見せ方はしたくない、言ってみ
 れば彼ら一人一人が主演の短編映画ってことだ。

【イメージ映像】
彼らの映像については実際に映画を観て、ご自身で感じて欲しい。
今となっては賛否両論があるが、私はけしてあの映像は嫌いではない。
ファンの中には「あんな中途半端なものをインサートするなら純粋に演奏場面
だけで構成したほうがよい」という意見もある。
だが、あれも含めて・・・・これはツェッペリンという人間を描き出した「映画」なの
だから。



必ずしも予測できないことではなかったが、その後マソットは全身全霊を注いだ
このプロジェクトから降板させられてしまう。
後任に招かれたのはオーストラリア人のピーター・クリフトンだった。

後年、ペイジ

 この件については何も話したくないんだ。
 振り返ってみるとあのままでもよかったのかも知れない、マソットも彼なりに
 いろいろ考えていたんだろう。
 単にこっちの忍耐が足りなかっただけかもしれない、少なくとも最初のうちは
 そうだったし、気に食わないことがあると僕らはあからさまにイヤな顔をした
 からね。

ライヴ映像の問題の一つにキーとなる曲で引きの映像がまったく抑えられて
いなかったというのがある。
そのためエディターはペイジプラントの映像ばかり使わなくてはいけなかった。
また撮影から3年という準備期間もバンドの苛立ちに一役買っていた。
バンドが早くも失敗作とみなし始めたこの映画をめぐり、マソットはしかし恨み言
をいうことはなかった。
彼自身がスタートさせ、心血注いだプロジェクトだけにこうした結末には不満だ
ったはずなのだが。


こうして紆余曲折の末、1976年10月20日、ニューヨークにおいて彼らのライヴ
映画「狂熱のライヴ -The Song Remains The Same-」が公開された。

                                    (つづくw)


【ライヴ映像】
である本作品は当時のロック小僧であった私にとっては忘れられないものに
なりました。
高校生だった私は新設校に進学したこともあって、そこには軽音楽部(今でも
そういうのかな?w)もなく自分達で作った経緯があってロックやバンドという
ものについて特別な思い入れがあったのかもしれません。

だから当時を知らない若い人たちがこの映画について「演奏シーンがヘンw
なイメージ映像でとぎれるのはどうか」とか「画像が悪い、音質が悪い」など
といろいろ言うのは正直耐えられない気持ちになります。
戦争にしてもなんにしても・・・そのとき、リアルに体験してこなかった人たちが
何を言っても、実際リアルタイムに接してきた側からすれば「何も知らんで、
勝手なこと言うなっ!」って気持ちになるもんなんですね。
考えてもみてください、30年も前の作品です・・・今の基準で判断するほうが
おかしいと思うんですけどねw

てなこと言ってること自体、私も歳をとってきたのかもしれませんがw
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by shika_monologue | 2005-09-23 00:32 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

Commented by 奈良の鹿 at 2005-09-25 17:59 x
「ウッドストック」とかってのは完全にコンサート映画(ヘンな言い方やなw)
なんですが、ZEPPのソレは・・・やはり「映画」なんですよね(^^)
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