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もしも・・・・・

ボンゾが健在だったら・・・それはもう何万回となく耳にした言葉である。

その活動中もいろんな悲劇に見舞われてきた彼らにして、ジョン・ボーナムの死は大きな
ショックであり残されたメンバーは何も手につかなくなっていた。
黒魔術に絡めてこれらの悲劇を書こうとしたマスコミを見限った4人は、その目の届かない
ところで黙って苦しみぬいていたのである。
プラントジョンジーは家族の元に逃れ、ペイジグラントはそのはけ口をドラッグに求めた。

こうして文字通り冬の時代を耐えていた彼らだが、正式に解散を発表したにもかかわらず
周囲はそれを良しとしなかった。
残ったメンバーがボンゾに代わるドラマーを求めてオーディションを行っているという噂が
後を絶たず、それはあまりにいつまでも流れつづけたため信憑性を帯びるまでになった。

利益を追求する人種の眼には、単にメンバーの一人がいなくなっただけでその最盛期に
活動を終えるなどということは初めてのケースであり、外部は彼らを金儲けマシンとしか
見ていなかったが、彼らの選択はその流れの逆をいっていた。

何ヶ月か経ってもオーディションの噂は全くおさまらず、事実グラント

 いろんなドラマーのところから電話がかかってきたのは事実だ。

と言っている。

 信じられないことにレコード会社からのプレッシャーがこれまたキツくて・・・
 アトランティックとワーナーからはメンバーを口説いて復活させろというプレッシャーが
 のしかかってきたんだ、ライブ・アルバムを発売させろ・・・とかね。
 たしかにペイジはバンドのプロデューサーだったからライブ・テープは山にように持って
 いただろうけど、そんなもので姑息に稼ぐなんて他の連中ならともかくツェッペリン
 やることじゃないって言ってやったよ。

ペイジも、

 あの時期に別のドラマーを入れるなんてことは考えもしなかった。
 ボンゾのプレイを誰かが「勉強する」なんて、それじゃ正直さがなくなってしまう。
 僕らはお互いに尊敬しあっていたし、それは生きていようと死んでいようと同じだった。


どん底の中から最初に仕事に復帰したのは意外にもペイジだった。
ペイジが新しく購入した新居の隣に住んでいた映画監督のマイケル・ウィナーが彼を
口説き落として映画「ロサンジェルス」のサウンド・トラックを担当させたのである。
その結果完成した作品は、到底ペイジのソロ第一作の名には値しなかったものの、
作品中の謎めいたシークェンスは、その後のツェッペリンが目指していた方向性を示唆
するものだったかもしれない。

再び秋が来てボンゾの一周忌も近づいたころ、ペイジは広く噂されていたツェッペリン
の遺産についても静かにミキシング作業を進めていた。


1982年11月19日にリリースされた「CODA」は4位で米国のチャートに初登場、プラチナ
ディスクを獲得したあと1年間チャートに居座り、その無敵のキャリアを締めくくった。

                                          (終わり)



【とりあえず・・・】
「CODA」の作品紹介は残っていますが、ツェッペリン・ストーリーとしては今回で一旦
終わりです(^^)

5月21日に第一回を書いて、気が付けば10月半ばじゃんっ!
よく続けてこられたな~w
これもひとえに皆さんの応援の賜物です。
その後のストーリー(第二部)があるのかどうかは・・判りませんがw、永らくこの物語
にお付き合いくださった方々、ありがとうございましたっ♪m(_ _)m

by shika_monologue | 2005-10-18 00:32 | 鉛の飛行船の話 | Comments(3)

Commented by 奈良の鹿 at 2005-10-19 02:20 x
そのうち後日談でもやっちゃおうかな(^^)
Commented by 奈良の鹿 at 2005-10-19 07:47 x
・・・・あっちの・・(-_-;)←おいおいおいおいw
Commented by kawamu at 2005-10-20 11:32 x
お疲れ様でした。そしてありがとうございました(o^o^o)
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