カテゴリ:鉛の飛行船の話( 60 )

エピローグ -SOLO WORKS and More-

ボンゾというスゴ腕のドラマーを失ってメンバー補充より解散という途を選択したZEPPELIN
ペイジは映画のサントラなどを経て、これまた名ヴォーカリストのポール・ロジャースとともに
THE FIRMを結成するも成功することはなく、その後はプロジェクト・レベルの活動を中心とし
新たにバンドを結成するまでには至っていない。

ジョンジーは卓越したプロデュースの手腕をもって様々なアーティストのプロデューサとして
活躍、もっとも「バンド」という形で活動したのがプラントだった。

プラントハニー・ドリッパーズへの参加をはじめ、ソロ・アルバムも多数リリースして新たな
活動をもって聴衆を魅了した。
が、どうしても「元ツェッペリン」という肩書きがついて回る中、彼自身がそういうしがらみや
拘りを捨ててリラックスして活動できるまでにはいくらかの時間が必要だった。


こうして「偉大なるロックの遺産」として伝説になりつつあるなか、往年のファンにとっては
信じられないようなニュースが飛び込んできた。
ペイジが元ホワイトスネイクデヴィッド・カヴァーデイルと組んでユニットを作ったというもの
である。

カヴァーデイルといえばかつてはプラントのクローンといわれ、ツェッペリン・ファンからは
けして好印象で迎えられたとは言いがたい人物であるがゆえに、ペイジが彼と組むという
噂はにわかには信じられなかった。

が、噂は噂に終わらず二人は(このプロジェクトとしては最初で最期の)アルバムを作成、
ワールドツアーを行う。
それはそれで同時期に発表されていたプラントのアルバムより「ツェッペリン然」としてお
り、改めてペイジの曲作りというものがいかにツェッペリンにとって重要であったかを物語
ると同時に、カヴァーデイルのクローンぶりも再認識した事件だった。

さらに時を経て、再び聞こえてきた噂・・・・ペイジプラントが「UNPLUGED」という舞台
で帰還を果たすというもの。
前回のプロジェクト以上に衝撃的なニュースに歓喜しながらも、二人の年齢的な限界に
やきもきする中、しかしそんな心配は無用とばかりに「UNLEDDED」と称したステージ
はやはり素晴らしいものだった。

ツェッペリン時代の曲もアコースティック・ヴァージョンで再演され、ただの懐古趣味では
ない新しいアレンジで耳にする名曲たちは、改めて私達を興奮へと導いてくれたもので
ある。

それでも二人はステージでは「天国への階段」を演奏することはなかったがこれは来日
時に「ニュース・ステーション」にゲスト出演した際、ショート・ヴァージョンをして演奏され
ている(私はこのとき二人が出演することを事前に知らなかったが、たまたま観ていて
涙した記憶がある)。


このプロジェクトが進められる中、ジョンジーは本人達からではなく周囲からその話を
聞いたそうである。
そのときの様子をジョンジーは・・・

 二人がどんな活動をしようと勝手だけど・・・
 周りから聞かされるのって、あまり気持ちのいいものじゃない。

と語っていた。


こうした解散後の活動とは別に、彼らは集結しライブ・パフォーマンスを披露している。
アトランティックの周年記念コンサートなどでは故・ボンゾの息子、ジェイソンを迎えて
ツェッペリン時代の数曲を披露した。
たしかにジェイソンは父親に一番近い存在だったかもしれない。
彼は彼でいいドラマーであるが、それでもボンゾの代わりになりえるものではなかった。


現在「BBCライブ」や「LED ZEPPELIN DVD」などで彼らの卓越したパフォーマンス
を目に、耳にすることができる。
これは解散当時には考えられないような幸福な状況であり、今この時代を生きている
ことに感謝せずにはいられない。

LED ZEPPELIN」と彼らの残した偉大な足跡は永遠であり、それはまたロック史に
燦然と輝く巨星であることは20数年経った今でもなんら変わることはないのである。
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by shika_monologue | 2005-11-09 00:11 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

遺産

1982年11月19日、解散宣言から一年と少し経った後にリリースされた一枚です。
それまでの作品からのアウト・テイクなどから編集されましたが、「PHYSICAL~」でのソレ
と違い作品としての統一感には欠けるものの、まさに「遺産」という感じです。

d0021258_2356716.jpg

過去のアルバム作成において、メンバーはほとんどないといってましたがやはり収録曲
以上に曲を用意しておくことは当然だったんで、ペイジの手元にはけっこうあったみたい
です。

このアルバムはそんな中からペイジ自身がセレクトして編集したもので、ツェッペリンの
財産として封印したもの。
時代の流れというものは感じられますがアルバムとしての完成度はけして悪くありません。
が、順番としてはオリジナル・アルバムを聴いてから・・・というものですね。


WE'RE GONNA GROOVE
「Ⅱ」からのアウト・テイク。
初期の荒々しさというものが聴いて取れる一曲ですね。
原曲はベン・E・キング、「スタンド・バイ・ミー」で有名ですがこの曲がどんな感じで演奏
されていたのか・・・興味はあります。
録音はけっこう古く、そのころのスタジオ・ライブ的な雰囲気は懐かしい感じさえします。

POOR TOM
「Ⅲ」からのアウト・テイク。
やはり時代を反映してアコースティックな曲です。
このアルバムはマニアとしてはどうしても「懐古」という感情が出てしまいましが、なかなか
どうしてこの曲なんかは新作だと言われたら納得してしまいそうな・・・彼らの幅広さを改め
て認識させられる曲だと思います。

I CAN'T QUIT YOU BABY
1970年1月、ロイヤル・アルバート・ホールでのステージ前のリハーサルから「Ⅰ」に収め
られていた同曲の別テイクです。
リハーサルだというのに、このエネルギーはなんなんでしょう?
一枚目で聴かれるヴァージョンもいいですが、このテイクもアレンジとしての完成度は凄く
高いんじゃないかな。

WALTER'S WALK
「聖なる館」からのアウト・テイク。
曲調としては「プレゼンス」的な感じですが、彼らのストレートなロックン・ロールはガツン
とくるものがありますね。
アップテンポでダンサブルな一曲です。

OZONE BABY
「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」からのアウト・テイク。
アルバム全体がジョンジー色だった同アルバムにおいてはペイジ寄りなこの曲が外され
たことは想像に易いです。
それでもギターの音なんかは前曲に比べて大人しく、時期的なものが理解できる一曲
ですね。

DARLENE
前曲に続き「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」からのアウト・テイク。
アレンジの複雑さなどから時代が読めますが、やはりアルバム・カラーとしての制約か
ら外されたんでしょうか?
「プレゼンス」は別にしても「フィジカル~」以前の曲を思い起こさせる曲調はペイジして
ますね。

BONZO'S MONTREAUX
「いつかはドラム・アルバムを創りたい」といっていたボンゾへのはなむけでしょうか。
モントルーで録音したボンゾのドラムソロにペイジがエレクロニクスを追加して立派な曲
に仕立て上げて収録しました。
ボンゾの偉大さというものを再確認させてくれるテイクとなっています。
シンバルの「シャーン」ではなく「ショワ~ン」という響き・・・なんどか真似してみたけど
出来ませんでした。

WEARING AND TEARING
これまた「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」からのアウト・テイク。
どちらかといえば「プレゼンス」に収められていたほうがしっくりきそうな曲なんでやはり
アルバムでは外されたようですね。
確かに「イン・スルー~」にはこういう攻撃的な曲は少なかったな、と後から聴き返して
納得できる部分はあります。


ここまでがアナログ盤発売時に収められていた曲で、次からはCDボックス化されたとき
に追加されたボーナス・トラックです(一応曲紹介だけね)。


BABY COME ON HOME
1968年というからデビュー前の録音ですね。
ブルージー・バラードとでも申しましょうか・・・たしかに初期の彼らにはこういう曲があり
ましたよね。
ツェッペリンらしからぬ、というかなんかアメリカン・ブルースな感じがしてしまいますが
彼らのルーツにブルースがある、という確かな証拠なのかもしれません。

TRAVELLING RIVERSIDE BLUES
ペイジのスライド・ギターの音色も懐かしい曲ですが、このへんの曲が初期の彼らの
ステージでは聴けたんでしょうね。
タイトルからも判るように、曲調は完全なブルースです。
でもそこは曲者4人が演奏ってるだけあって非凡なものがあります。

WHITE SUMMER / BLACK MOUNTAIN SIDE
「ワールド・ワイドなツェッペリン」というものを具現化したような組み合わせですが、
思えばこのへんのアレンジなんかは後の「PAGE & PLANT」に繋がっていってる
のかも、と思えます。
私もギター一本抱えてこんなことが出来たらな~・・・と無謀にも挑戦したことがあり
ますが、見事玉砕しましたw

HEY HEY WHAT CAN I DO
これもアコースティックな雰囲気がする曲ですね。
ハードなツェッペリンを聴いてきた後の一服の清涼剤、みたいな・・・なんか開放され
る感じがあって、全10枚組のボックス・セットは締めくくられました。



「遺産」であると同時に彼らの「進化の証明」のようなこのアルバム・・・でも入門編と
して聴くようなことはして欲しくないですし、あくまでもオリジナル・アルバムがあって
こその「CODA(最終楽章)」です。

この延長線上に4人が見つめていただろう未来、80年代・90年代・・・そして00年代
に LED ZEPPELIN というバンドがあれば私達は今どんな音楽を聴いてるんだろう
という夢を見ながら、これにて終わりです。
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by shika_monologue | 2005-10-26 00:04 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

もしも・・・・・

ボンゾが健在だったら・・・それはもう何万回となく耳にした言葉である。

その活動中もいろんな悲劇に見舞われてきた彼らにして、ジョン・ボーナムの死は大きな
ショックであり残されたメンバーは何も手につかなくなっていた。
黒魔術に絡めてこれらの悲劇を書こうとしたマスコミを見限った4人は、その目の届かない
ところで黙って苦しみぬいていたのである。
プラントジョンジーは家族の元に逃れ、ペイジグラントはそのはけ口をドラッグに求めた。

こうして文字通り冬の時代を耐えていた彼らだが、正式に解散を発表したにもかかわらず
周囲はそれを良しとしなかった。
残ったメンバーがボンゾに代わるドラマーを求めてオーディションを行っているという噂が
後を絶たず、それはあまりにいつまでも流れつづけたため信憑性を帯びるまでになった。

利益を追求する人種の眼には、単にメンバーの一人がいなくなっただけでその最盛期に
活動を終えるなどということは初めてのケースであり、外部は彼らを金儲けマシンとしか
見ていなかったが、彼らの選択はその流れの逆をいっていた。

何ヶ月か経ってもオーディションの噂は全くおさまらず、事実グラント

 いろんなドラマーのところから電話がかかってきたのは事実だ。

と言っている。

 信じられないことにレコード会社からのプレッシャーがこれまたキツくて・・・
 アトランティックとワーナーからはメンバーを口説いて復活させろというプレッシャーが
 のしかかってきたんだ、ライブ・アルバムを発売させろ・・・とかね。
 たしかにペイジはバンドのプロデューサーだったからライブ・テープは山にように持って
 いただろうけど、そんなもので姑息に稼ぐなんて他の連中ならともかくツェッペリン
 やることじゃないって言ってやったよ。

ペイジも、

 あの時期に別のドラマーを入れるなんてことは考えもしなかった。
 ボンゾのプレイを誰かが「勉強する」なんて、それじゃ正直さがなくなってしまう。
 僕らはお互いに尊敬しあっていたし、それは生きていようと死んでいようと同じだった。


どん底の中から最初に仕事に復帰したのは意外にもペイジだった。
ペイジが新しく購入した新居の隣に住んでいた映画監督のマイケル・ウィナーが彼を
口説き落として映画「ロサンジェルス」のサウンド・トラックを担当させたのである。
その結果完成した作品は、到底ペイジのソロ第一作の名には値しなかったものの、
作品中の謎めいたシークェンスは、その後のツェッペリンが目指していた方向性を示唆
するものだったかもしれない。

再び秋が来てボンゾの一周忌も近づいたころ、ペイジは広く噂されていたツェッペリン
の遺産についても静かにミキシング作業を進めていた。


1982年11月19日にリリースされた「CODA」は4位で米国のチャートに初登場、プラチナ
ディスクを獲得したあと1年間チャートに居座り、その無敵のキャリアを締めくくった。

                                          (終わり)



【とりあえず・・・】
「CODA」の作品紹介は残っていますが、ツェッペリン・ストーリーとしては今回で一旦
終わりです(^^)

5月21日に第一回を書いて、気が付けば10月半ばじゃんっ!
よく続けてこられたな~w
これもひとえに皆さんの応援の賜物です。
その後のストーリー(第二部)があるのかどうかは・・判りませんがw、永らくこの物語
にお付き合いくださった方々、ありがとうございましたっ♪m(_ _)m
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by shika_monologue | 2005-10-18 00:32 | 鉛の飛行船の話 | Comments(3)

終焉

北米ツアーの発表から10日後、9月24日にメンバー達はペイジが新しく購入した邸宅に
集結した。
個人的にもバンド全体としても士気は高まっており、ペイジ

 僕らはもっとやるべきことがあると思う。
 このバンドはそうしたチャレンジの上に成り立ってるんだ。

と語っていた。
後にジョンジーは・・・

 あの日の僕らは盛り上がっていた。
 最初のリハーサル、それも初日の遊び半分みたいなやつでムードは最高だったよ。
 さあ、明日からはツアーに備えて本格的に始めるぞって思ってたらあんなことになって
 しまって・・・


ボンゾを自宅からペイジ宅まで車で送るのはレックス・キングの役目だった。
ヘロインとは手を切ったと伝えられていたボンゾだが、抗不安剤の服用は続けていた。
ペイジ宅へ向かう途中ボンゾはパブに車を止めさせハム・ロールとウォッカを4杯、胃袋
に収めた。

さらにリハーサル中にも2、3杯飲み干し、バンドに復活パーティでも飲み続けたため、
真夜中にはソファで酔いつぶれてしまった。
ペイジのアシスタントは寝室まで運んで枕をいくつか敷き詰め、脇腹を下にして横たわ
ったボンゾを残して部屋の明かりを消したが、翌日の午後になっても姿を現さないため
様子を見に行ったプラントのアシスタントはそこで死んだように動かない彼を発見した。
すぐに救急車が呼ばれたがボンゾは数時間前に死亡しており、もはや蘇生は不可能
だった。

プラントパット・ボーナムと二人の子供を慰めるため北に向かい、ジョンジーは自宅
に戻った。
ペイジは自宅に残り、その周囲では多くのファンが黙祷していた。


ニュースは世界各国で新聞の見出しを飾ったが、中には悪趣味なものもあった。
ロンドンのタブロイド紙は、

 ツェッペリンの黒魔術ミステリー
 キチガイじみて聞こえるかもしれないが、プラントを含めバンド周辺の人間はみんな
 ボンゾの死を筆頭とする一連の悲劇はペイジの黒魔術との関わりが原因ではない
 かと考えている。
 思うに残る3人のメンバーは次に何が起こるのだろうと、内心ビクビクしてるのでは
 ないだろうか?


ボンゾの追悼式は2週間後の10月10日、自宅から程近い教会で行われた。
小さな教会は一杯になり、同郷の友人たちがパットや二人の子供たちに力を貸し、
ホールの外では地元のファンが式次第を見守っていた。

遅かれ早かれ、その放蕩な生活のツケが回ってくるのは必至だったという声も聞か
れたが、ジョンジーは避けようのないことなんてないんだ、と後日語っている。

 ボンゾの死は事故だった、誰の身に起こっても不思議じゃない。
 あれだけ酔っ払ってあおむけになって寝たらああなるのを待ってるようなもんだ。
 それくらい単純なことだったんだ。

グラントもまた、

 リハーサルには行かなかったけど、あの話を最初に聞いたときはショックで言葉
 も出なかった。
 リハーサルで何杯か飲むのはボンゾにとって珍しいことではなかった。
 といっても飲みすぎることはなかったしドラッグにも一切手を出さなかった。
 彼がそのプレイと同じく熾烈な生き方をしていたのは間違いない、いつも全開だ
 った。
 でもひとつだけ覚えておいて欲しいのは彼の音楽的な才能だ。
 家族をとても大切にする男だったけど、いったんアルバム創りやツアーが始まれ
 ばいつだって一番にやってきた。
 家族だけじゃない、バンドに対しても全力を尽くしていた本物のプロフェッショナル
 だった・・・あんな男は他にいない。



かけがえのない友人を失った3人はこの事件以降を田舎に引きこもってやり過ご
していた。
栄光の復活、という夢が土壇場でついえてしまったのだ。
続けてジョンジーは語る。

 まったくの混乱状態だった。
 覚えているのは、もう誰ともプレイする気になれなかったこと、なんといっても彼
 は僕の理想のドラマーだったからね。
 ようやく全員が集まって先のことを話し合ったけど、とても続けていく気にはなれ
 なかった。

プラントはこう答えている。

 彼は僕の大親友だ、二人とも15ぐらいのときからずっと一緒にやっている。
 ボンゾの死に関してはペイジジョンジーも同じ気持ちだろう。
 ただ一つ違いがあるとすれば、それは僕らが家族ぐるみで深い付き合いをして
 たってこと。
 ツアーに出てるときなんか僕らはほんとに近しかったし、だから今回のことでも
 「決まりだな」の一言でケリがついた。
 他の誰か、たとえばペイジジョンジーか僕の身に起こったことだったとしても
 結論に変わりなかったと思う。
 はっきりと「もう終わりにしよう」って感じだったのさ、黙っていてもそれで決まり
 だったんだ。

ツェッペリンの最期を振り返ってグラントは、

 どんなかたちでも活動の続行はあり得なかった。
 どうしたってツェッペリンじゃなくなってしまうからだ。
 4人で集まったとき、彼らは私の顔を覗き込んで「どうしたらいいと思う?」って
 訊いたから「前と同じにやっていくわけにはいかないだろう、どうしたって違って
 しまうんだから」って答えた。
 彼らは「そう言ってくれて嬉しい」ってね。
 彼らの心は決まっていたし、私の心も決まっていた。
 4人の心はひとつだった。

そうする以外の道は考えられなかった。
その報せも、実に密やかに伝えられた。



私達の親愛なる友の死、彼の家族に対する深い敬意、そして私達及びマネー
ジャーともども感じているところの断ち切ることのできない一体感から、私達は
今までのような活動を続けていくことは不可能という結論に至りました。
                                -1980年12月4日-




それはニューヨークのダコタ・アパートの前でジョン・レノンが凶弾に倒れる4日
前のことだった・・・60年代と70年代という二つの時代の終焉を感じた、そんな
出来事だった。

                                      (つづく)



【・・・・・】
とうとうこの瞬間がきてしまいましたが・・・・・
まあ、私の中では「CODA」までがツェッペリンのリアルタイムってことでね
(アナログ・レコードだしね)、シリーズはあとちょっと続きます。
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by shika_monologue | 2005-10-14 00:08 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

可能性

発売されて一週間のうちに「IN THROUGH THE OUT DOOR」はツェッペリン6作目
のナンバー1アルバムとなった。
音楽業界はその復帰を祝福し、過去のアルバムもチャートに返り咲いた。

アトランティックの重役達はこのアルバムの成功理由のひとつとして次のような事柄
を挙げている。
それは神秘性を秘めたジャケット仕様にあった。

このアルバムのジャケットは二重構造になっており、茶封筒のような外袋のなかに
同じシチュエーションで異なる6つのデザインの内ジャケが入っており、それは開け
るまで判らない状態で、マニア心を大きく揺さぶったのである。

ニュー・アルバムに対するマスコミの反応は一様ではなかったが、それでも初期に
比べればずっと好意的だった。
例を挙げると・・・

 基本的にはロックンロール・アルバムでありながら、同時に様々な分野にも手を
 伸ばしている、こんなにも楽しい道草を私は他に知らない。
 相対的に「IN THROUGH~」は4枚目以来もっとも強力な作品である。
                              -クリーヴランド・シーン誌-

 一瞬でもエネルギーを犠牲にすることなくレイド・バックしたアルバムだ。
 派手さよりもバンドのアンサンブルに重点を置き、ほぼ全曲がそれぞれ特色を持
 つ傑作に仕上がっている。
 驚くべきことに10年を経ても彼らの曲は変わらない、今も新鮮でスカッとさせてく
 れる。
                                     -サーカス誌-

こうしてツェッペリンは多くの試行錯誤や試練に負けることなく70年代を走りぬいた。
彼らはかつてないスタイルで10年間に挑みつづけ、ごく短期間のうちに他をはるか
に引き離して70年代を代表する地位を確立した。


80年代が始まって最初の数ヶ月、ほとんど音沙汰のなかったツェッペリンだったが
その裏ではステージ復帰に向けてゆっくりと動き出していた。
彼らは自分達が80年代においても十分通用するバンドであるということを、世界に
向けて証明したいと考えていたのである。
5月30日には、73年以来ひさびさのヨーロッパ・ツアーを開始するとスワン・ソング
から発表があった。

カラック・プラントの死去以来、初めてのツアーはドイツのドルトムントを皮切りに
20日間ほど続いたが、多くの人々を困惑させたのは英国のマスコミが驚くほどに
このツアーについて記事にしなかったことである。
バンドの完全復調を示すイベントであったにもかかわらず、マスコミはほとんど一言
もその事実に触れようとはしなかった。

実際にツアーはこの上なく順調に進んでおり、唯一の問題らしい問題?といえば
ボンゾの肉体的疲労を理由にニュールンベルグ公演がキャンセルされたことぐらい
だった。
6月27日、同公演中にボンゾがドラム・スツールから滑り落ち昏倒するという事件
が起こったのである。
この夏の夜に起こった小さな出来事が、後に起こる事件の前触れだったとは誰も
思ってもみなかったのだが・・・・


それまで、まるで雪だるまのように膨れ上がっていたステージ・セットはこのツアー
で元に戻されツェッペリンは素のままの4人を見せることにした。
そして1980年9月、スワン・ソングは北米のマスコミに次のようなニュースを伝えて
いる。

 1980年代のツェッペリン:Part.1
 本日ピーター・グラントは、ツェッペリンが10月中旬より米国ツアーを開始すると
 発表した。


グラントは4人をツアーに復帰させたことで有頂天になっていたが、彼にはプラント
を説得するという大役が残されていた。
前のツアー中に子供を亡くしたのが全ての元凶で、プラントは米国行きを嫌がって
いたのである。
しかし一方で新時代の始まりを自覚していたプラントは、グラントの説得に応じる
こととなる。

ファンはチケットに殺到し、パンクの台頭による音楽シーンの混乱をよそに彼らの
神話は脈々と生きていた。
本当の意味での迫力に欠け、目先の変化に囚われた昨今のニュー・ウェイヴに
飽きていた人々はツェッペリンの再生を快く受け入れたのである。

再び、天国への階段を昇ることができる・・・・そんな魅力的な夢は、誰も予想でき
なかった悲劇によって打ち砕かれることになる。

                                      (つづくw)



【次回は】
いよいよ・・・・です。
サスガにちょっと心が苦しいかな?
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by shika_monologue | 2005-10-09 00:42 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

復活

ピーター・グラントは過去10年間、ツェッペリンをヘッド・ライナーとして野外コンサートを
開きたいと申し出る無数のプロモーターからの誘いを断りつづけてきた。
しかし、時が満ちたと感じたグラントがこうした申し出に対し真剣に交渉を開始したのは
79年夏になってからのことである。
プロモーターは第6回ネブワース・フェスティバルの出演者を集めている最中だった。
4年前に凱旋コンサートをして以来、英国のステージに立っていなかった彼らにグラント
はイベントのトリを飾らせることにした。

 君らなら週末、2週連続で満杯にできるだろう。
 そしてこれこそが(主にプラントに向けて)まだ辞めるときじゃないってことの証明に
 なるんだ。


79年春、英国のマスコミはパンク熱でうかれていた。
ツェッペリンのネブワース出演が公表されると愚かなジャーナリストやミュージシャンの
間では、彼らを過去の遺物扱いして誇ることが流行になっていたのである。
パンクに肩入れしすぎてバランスを欠いた評論家はもちろん、若いミュージシャン連中
も当然のように彼らを主流から追いやろうと必死になっていた。
クラッシュポール・シムノン

 ツェッペリン?音を聴くまでもない。
 ジャケットを見ただけで放り投げたくなる。

と、言い放っている(実際、彼らのほうが「放り投げたくなる」ような音楽なのだが・・・)。
この愚かな皮肉屋達は、イベントのチケットがなかなか売れずツェッペリンの人気の程
を露呈するだろう、と予測していた。

が、大口を叩いて彼らをクサした連中は手痛いしっぺ返しを喰らうことになる。
チケットは、共演するバンドの告知を一切行っていなかったにもかかわらず、発売から
わずか二日間で売り切れてしまった。
バンドの人気低落の噂は払拭され、パンクのバカバカしい攻撃もマスコミの非現実的
な糾弾もまったく気にならなくなった。
事実、直後にリリースされた「IN THROUGH~」が裏づけするとおりかつてなくバンドの
人気は高まっていたのである。


ここ数年、プレッシャーや様々な問題を克服してきた彼らの闘いぶりは賞賛に値する。
彼らはおそろしくアンフェアな状況下でカムバックした。
ツェッペリンのプレイは決して湾曲した伝説に見合ったものではかなったものの、一瞬
でも過去3年間が無駄だったと思わせることはなかったのである。
現場に遭遇した者はこう語る。

 言葉だけでネブワースのツェッペリンを表現するのは不可能である。
 現実に目撃していなければステージに復帰した彼らがどれだけの熱狂を引き起こし
 たか想像できないだろう、それくらい激しいライヴだった。

相変わらず的を外した評論があったことも事実だが・・・
ジョンジーは後にこう振り返っていた。

 あれは特別なコンサートだったと思うね。
 ただ、振り返ってみるとちょっと悲しくなってくる、というのもあれが新時代の幕開け
 を告げるはずだったのに、結局その時代が始まらないまま終わってしまったから。

                                       (つづくw)



【ジョンジーの】
含みを残した言葉で終わってしまいましたがw、次回はそのことに触れる・・・・・前に
まだ書き残したことがあったりします(^^;)
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by shika_monologue | 2005-10-06 07:40 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

ラスト

1979年8月15日、前作以来実に3年半ぶりの新作はこれまでの彼らのアルバムとは
明らかに一線を画したものとなりました。

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特に「PRESENS」がペイジのギター・アルバムだったのに対してこちらはジョンジーの
キーボード満載、YAMAHA GX-1 というモンスターを操り、ヘタなプログレ・バンドより
それらしく仕上がっているこのアルバムは80年代のリスナーにどう聴こえたのか?

ツェッペリンを「プログレ」というカテゴリに入れようと錯覚した人たちがいたのも頷ける
音ではありました。


IN THE EVENING
しょっぱなからジョンジー全開ですね。
始まったとたんにそれまでのアルバムとは違うなってのが判ります。
別に曲調が全く変わってしまったってワケじゃないんですけど、音創りという面では
ギタリストであるペイジとは色合いが異なるのが一曲目から実感できますね。
前評判で聴いていた「ジョンジー・プロデュース」という作品に対する期待と不安が
入り混じったような気持ちが払拭されたような瞬間でした(^^)

SOUTH BOUND SAUREZ
こちらは軽快なピアノの連打から始まる曲。
全体的な印象も「軽快」という言葉がぴったりな感じがします。
このアルバムの中では好きな曲のひとつなんですが、それはやはりペイジのリフが
聴いているからかも(^^)
このリフ、ちゃんと音出そうとするとけっこう難しくてねw、感じとしては「聖なる館」の
「デイジャ・メイク・ハー」みたいな感じかな?

FOOL IN THE RAIN
面白い構成、というか途中で聴けるサンバ風のアレンジが逆に新鮮というか。
でもサンバって本来軽快なものであるはずなのに、やはりボンゾのドラミングは重いw
またペイジにしては珍しく、ソロのギターの音が思いっきりファズ・サウンドなんですね。
この曲なんかを聴くとたしかにジョンジーのアルバムだなってのが実感できますが、
それでもZEPPを肌で感じることが出来るのは、ボンゾの存在感が大きく関わってます
よねw

HOT DOG
このアルバムでは珍しいペイジ・プロデュースによる曲。
てか、ほとんどお遊びで入れられたんじゃないか?って感じですね(^^)
カントリー&ウェスタンな曲調も楽しく、ペイジのギターも昔のバンドのソレを思わせる
音創りがされてます。
実際、普段そういう曲調のギターを弾いてない人がやったら、こんな感じになるんじゃ
ないかという感じが面白いですね(^^)
ボンゾもぜんぜん難しいことしてないしw

CAROUSELAMBRA
これぞ「ヘタなプログレ・バンドよりもプログレしてる」曲です(爆)
前作でも一曲目(アキレス)はけっこう長い曲で、いくつかのパートで構成されていま
したが、こちらもそういう感じで途中で印象が変わる、いわば組曲といった風ですね。
実はこの曲、私の中ではライヴで聴いてみたい曲なんですが・・・
後期のZEPPが日本に来ていたらと思わせる一曲です。

ALL MY LOVE
YAMAHA GX-1の実力が明確に現れてる曲ですね。
ジョンジーがそれ以前に使っていたキーボード群、特にメロトロンなんかはステージ上
ではライティングの影響とかをモロに受けてたみたいで、テープが伸びたりモーターが
ヘタったりというトラブルが日常茶飯事だったと語ってましたが、このバケ物を手に入れ
たことでツェッペリンというユニットの中でキーボードが主役になりえた、ということが
よく判ります。

I'M GONNA CRAWL
アルバムの中で必ず一曲は入ってるブルージーな曲、このアルバムではコレですね。
ここまで聴いてきてやはり実感するのが、ボンゾの大人しさ。
ハデなオカズも少なく、リズム・キープに徹しているというか(音は重いですけどねw)
ペイジとともにこれまでのツェッペリンのアルバムとは一線を画した演奏は、聴く者に
どんな印象を与えたのでしょうか。
だからこそ、このアルバムに入っている曲をライヴで聴いてみたいという思いがやはり
膨らんじゃいます。


このアルバムの後、ペイジとボンゾは「このアルバムは大人しすぎる、次はもっと
アグレッシブなのを作りたい」と言っていましたが・・・それは叶わぬこととなりました。
確かにボンゾにしては抑えた演奏というか、イメージ的にはやはりキーボードが耳に
残りますが「次のアルバム」を聴いてみたかったという思いはあります。

とにかく事実上ツェッペリンとしてのスタジオ・ワークでは最後となった本作品。
80年代の彼らを占う上では貴重な意味を持っていると思いますが、皆さんはどう聴く
でしょうか?



【とうとう】
二日連続になっちゃった・・・(^^ゞ

てか、他に記事がなかったのよ~w
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by shika_monologue | 2005-10-03 00:21 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

傷心

ケルトの英雄にちなんでカラック・プラントと名づけられた少年の死を悼み、バンドはしばし
活動を停止、さらには長年プラントのアイドルだったエルヴィス・プレスリーの死亡などで
彼らはなおさら苦悩することとなった。
追い討ちをかけるようにボンゾの運転する車がスピン、ムードはさらに悪化する。

英国のタブロイド紙には解散説が流れ、ペイジも噂を抑えに動かなければならない状況
だったが、事態はもはや手がつけられなくなっていた。

中でもペイジの神経を逆撫でしたのが、彼のオカルト趣味の影響で一連の事故や悲劇が
起こったというマスコミの中傷だった。
普段口数少ないペイジにして、これには癇癪を爆発させる寸前で不満を漏らしている。

 最近僕らをネタにしたヨタ話が嫌になるくらい出回っている。
 僕がストーンズに入るなんてのもあったし・・・ミック・ジャガーに「プラントが加入する可能
 性は?」なんて質問するマスコミもいる、よくもまあそんなバカなことを思いつくもんだ。
 それにツェッペリンが解散するっていう根も葉もない噂が、なぜかわからないけどいつま
 でたっても収まらないんだ。

77年のクリスマスが近づく季節、ペイジは自宅のスタジオに入り浸ってプラントの復帰を
心待ちにしていた。
友人達には「大丈夫、きっと戻ってくる」と自信たっぷりだったが、当面はプラントが家族
と喪に服している間、バンドとしてはいっさいの予定をたてないことが決まっていた。
いつものように音楽誌の人気投票で上位を独占したという明るいニュースをもってしても
この状況を打開するにはあたらなかったのである。

こうして息を潜めていたバンドだったが、翌年5月には再結集し1ヶ月に及ぶリハーサル
を開始した(ペイジの立案でプラントも渋々ながら同意した)。
これは9枚目のアルバム用に曲を準備し、ステージ復帰への足がかりを作るのが目的
だった。
明らかに「手探り」の時期であり、実際に音を出してみることでこの先やっていくことが
できるかどうか確認するための作業だったのである。
セッションは前向きな音を奏で、ペイジプラントは本腰を入れて新曲に取り組み始め、
ようやく彼らは再始動した(これらの作業は解散などについて話し合うこともなく、すべて
あうんの呼吸で進められた)。


解散の噂こそ収まったもののファンに対しては何のインフォメーションもなかったがその
舞台裏では完成したばかりの新曲を一心不乱にリハーサルする彼らの姿があった。
準備はすべて秘密裏に進められたのである。
バンドは様々な憶測が飛び交うロック・シーンへの復帰を驚きに満ちたものにしたいと
考えており、現にそれは実現した。

計画がマスコミに漏れたのは12月のことであったが、なかでもこの報せはツェッペリン
など過去の産物にすぎないとタカをくくっていたパンク世代に衝撃を与えた。
「アルバム完成までにえらく時間がかかるのでは?」という中傷をよそに、ジョンジー
が全体的な監修にあたった9枚目のアルバムはわずか3週間の集中レコーディングで
おおよそ完成する。

ツェッペリンのアルバムでジョンジーがほぼ全曲について手がけるというのは初めて
であり、後のインタヴューでも自分がかつてなく大きな役割を果たしたことを認めている。

 あれは僕のアルバムと言えるんじゃないかな、「プレゼンス」がペイジのアルバム
 だったと言えるようにね。
 すごくキーボード主体のアルバムでもある、ちょうどキーボード類がのしてくる時代
 に作られたアルバムだったせいかもしれないけど。
 でも、いずれはこのバンドをキーボード・バンドにしようなんて計画は全然なかった。
 単にテクノロジーと歩調を合わせて進歩していっただけさ。


ペイジの完全主義者ぶりから見て永遠に完成しないのではないかと危ぶまれた作品
だったが、それは誤りだったことがほどなく証明された。
前作「永遠の詩」から35ヶ月、スタジオ・アルバムとしては「プレゼンス」から実に3年半
ぶりの新作(彼らが純然たる新作を発表するまでこんなにも長くかかったことは初めて
だった)は開封するまでどれかわからない6種類のジャケットに包まれて店頭に並んだ。
永らくシーンから遠ざかっていた彼らだが、実際には並のバンドならとっくに活動停止
していてもおかしくないくらいの激動を体験していたのである。

メンバー達はパンク・ロックが一変させたロック・シーンへの復帰を真剣に捉えていたし
また70年代を通じて他の追随を許さなかったライヴ・ステージへの復帰計画も練られ
ていた。

こうして1979年8月15日、多くのファンがそれまで体験したこともないような内容をもっ
て「IN THROUGH THE OUT DOOR」が発売された。

                                        (つづくw)


【たしかに】
このアルバムは異色作かもしれません。
プロデュースする人間によって、同じメンバーでも作品の印象はこれほど変るものか
というのを実感します。

でも音を聞けば、これは紛れもなくツェッペリンのアルバムなんです。

「IN THROUGH ~」のリリースは前年キャンディーズが解散してしまって落ち込んで
いた私にとって明るいニュースでした(爆)
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by shika_monologue | 2005-10-02 00:29 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

怪異 Part.2

1976年10月19日、待望のムーヴィー「永遠の詩」のワールド・プレミアが行われた。
同時に2枚組のサウンド・トラックもスワンソングからリリースされ、このアルバムは
米国で出荷と同時にプラチナを獲得、11月半ばには英国でもチャート首位に輝いて
いる。

しかし、撮影から3年という期間があったせいかメンバーはこの映画について語る
とき、いつも遠慮がちだった。

ペイジも・・・

 現実に映画で使われたギグについて言うと、飛びぬけていいわけでもなかったが
 飛びぬけて悪いわけでもない。
 魔法みたいな一夜じゃなかったのは確かさ、でも悲劇的な一夜でもなかったんだ。


永遠の詩」を一目見ようと世界中のファンが映画館に通う中、メンバーはロンドン
郊外の古い映画館(エマーソン・レイク&パーマー所有)で精力的なリハーサルを
開始していた。
プラントの足首の傷もこの頃にはすっかり癒えて、11回目の北米ツアーがスタート
し、夏の終わりには英国でも公演が予定されていると、大々的に発表された。
が、プラントが扁桃腺を患ってしまったため延期となり、エイプリル・フールのダラス
から幕を開けた。

3月末に待望のステージに向けて始動したメンバーは、しかし2年ぶりとあって
それぞれナーヴァスになっていた。
特にプラントは、

 プレイ自体にはまったく心配はなかった。
 ただ気がかりだったのは足を負傷したままで好きに動けるかってこと。
 最初の2、3回はひとつひとつの動きを確かめながらって感じだった。
 でもステージへの階段を昇っていくうちにそういう不安や嫌な感じはなくなって
 興奮が取って代わっていった。
 「ああ、なんて久しぶりなんだろう!」って・・・あそこに戻れたのがとにかく嬉し
 くてたまらなかったんだ。


もうひとつ、バンドにとって問題だったのが新曲がなかったことだった。
毎回、新曲を敢えてレパートリーに組み込むことで誇り高いリスクを冒してきた
彼らも今回は「過去の栄光」にすがるしかなかったのである。
それでも観客はツェッペリンが復活しただけで大満足だったが、彼らは「新たな
栄光」の欠如を快く思っていなかった。

 最初のうちはステージ上で大丈夫だろうか?って顔を見合わせたりもした。
 でも徐々に調子よくなってきて・・・
 単に昔の焼き直しじゃなくて、もう一段上のレヴェルに達していたんだ。

確かにツアーを開始する前から周囲では懸念する声があがっていた。
本来、あらゆる面で士気を高めていく立場にあったグラントでさえ、妻が自分の
農場で働く農夫と駆け落ちしてしまったせいですっかり落ち込んでしまっていた
し、ペイジの万全の体調とは言えずバンドの周辺にはヘロインが蔓延していた。

当のペイジはこう語っている。

 安全策なんて取りたくない。
 ギリギリの崖っぷち・・・そんなふうに生きたい。
 羊として千年生きるより、獅子として一日生きたいんだ。


バンドはレパートリーから「幻惑されて」を外していたが、友人によるとペイジ
ライフスタイルにおいてはこの曲は相変わらず不可欠の要素となっていた。
ペイジは前々からカイロにあるクロウリーペイジのオカルトの師匠と言われる
人物)の旧宅を訪れたいと言っていたが、ツアーが2週間の休憩となったのを
機に、いよいよそれを実行することにした。

リッチー・ヨークはその報せに悪い予感がした。
彼は過去にジミ・ヘンドリックスと語る機会があったが、そのときもジミは米国
からエジプトに向かうところだった。
そして、それがジミ最後のインダヴューとなったからである。
しかしそれは不要な心配であったようで、ペイジは無事エジプトから帰還して
いる。


その後もいろんな問題がありながら、それでも成功を収めていたツアーだが
ニューオーリンズに飛んだプラントのもとに英国にいる妻のモーリーンから連絡
が入っていると知らされた。

2時間後、彼は5歳になる息子の死という報せとともに再び姿を現した。
7月26日、息子のカラックは突然ウィルス性の呼吸障害に襲われ、翌朝には
さらに容態が悪化、病院に到着する前に死亡してしまったという。

立ち直れないほどのショックを受けたプラントは、妻と合流すべくボンゾと共に
英国に向かった。
空港で彼を出迎えた父親はマスコミに語った。

 成功も名声もいかばかりのものだろうか?
 家族の愛に比べれば、ほとんどなんの意味も持たないのだ。

                                    (つづくw)


【というわけで】
事故に続き、プラントを襲った悲劇・・・この後しばらくは彼らはまた公演を全て
キャンセルして喪に服すことになっちゃいました。
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by shika_monologue | 2005-09-28 02:31 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

ライヴ!

1976年9月28日、同名映画のサウンドトラックとして発売されたツェッペリンとしては
初のライヴ・アルバムでした。

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当時高校生だった私は映画館なんて滅多に行きませんでしたがw、これだけは何と
しても観なくてはっ!と一念発起して足を運びましたね(^^)
当時軽音楽部でツェッペリンのコピーバンドを作っていたんですが、メンバー全員を
引き連れて学校サボって行きました(爆)

今でこそ様々なライヴ・テイクがCDやDVDで出ていますが、この頃は「動くZEPP」
を初めて見るメンバーばかりだったのでスゴく興奮してたのを覚えてますw
帰りに気が大きくなった私は皆にコーヒー奢って、翌日からピーピーいってました。

映像的には73年のマディソン・スクエア・ガーデンでのステージからの編集で構成、
2枚組みなのに9曲しか入ってなくて、初期のツェッペリンのステージがいかに充実
したものであったか、というのを物語ってます。

あ、ちなみにココに登場する曲はすでにアルバム・レビューで書いてますんで感想
が短いですよw


ROCK AND ROLL
4枚目からの曲ですが、スタジオ・テイクとは違い前ノリ的なペイジのギターが
ライヴでの演奏でこなれた曲の進化みたいなものを感じさせます。

CELEBRATION DAY
これは映画では登場しなかった曲ですね。
スタジオ版ではダビングが多用されていたんで、ステージじゃどうするの?という
長年の疑問が解決された瞬間でしたw
(72年の来日時、やってたかどうかも覚えていない自分が情けなかったw)

BLACK DOG
こちらはLPではオミットされてましたが、やはり映像で観たい一曲です。
画がつくと迫力ありますね(^^)

SINCE I'VE BEEN LOVING YOU
これもLPではオミットされてました。
後に発売されるライヴ・テイクでは聞けますが、なぜこのときは外されたんでしょ
うね?謎です。

THE SONG REMAINS THE SAME
いわずもがなのダブルネックによるプレイがとにかくカッコイイです。
曲自体が複雑で指が攣りそうになるのに12弦でこれやると辛いっ!w
(コレ、前にも書いたなw)

THE RAIN SONG
映画ではプラントのイメージ映像が多くてねw
このアルバムではちゃんと曲に集中して聴けます(爆)

DAZED AND CONFUSED
いや、長いゾっ!(27分てw)
なんといっても実際に59バーストを弓でブッ叩く映像が見られるんで映画のほう
も見てねw
そのペイジ、イメージ映像では4枚目のジャケにも描かれている隠者に扮して
ます。

NO QUARTER
コチラのイメージ画像はジョンジーw
なんせバンドでは一番の男前ですんで、映像でも男前してます(爆)
コレも曲に集中したければコッチで(^^)

STAIRWAY TO HEAVEN
「This is a song of hope・・・」
もう感無量ですね、当時再びコレが映像で見られるとは思ってなかったんで、
感動もひとしおでした♪

MOBY DICK
ボンゾ、スゴいゾっ♪
他のメンバーがなんかファンタジーな映像なのに対してボンゾの映像は実物大
の感じがしましたね。
手でドラムセットを叩くボンゾ、必見です。

WHOLE LOTTA LOVE
テルミンがどういうものか判らない、という人はコレ見てください。
一見ペイジがただ踊っているように見えますがw、その先にあるアンテナみたい
のがソレです。


とにかく「映画」なんでメンバーのイメージ映像が多数出てきます。
でも一番似合ってるのは・・・

実はギャングに扮したピーター・グラントだ、ということは皆さん異論ないんじゃ
ないですかね(爆)

「ロック映画はあたらない」という業界の予想を裏切って多くのファンを動員した
この映画、ツェッペリンの人気というものを再確認させてくれました。

ペイジ曰く、

 演奏は最高とは言えない、たまたま映画を撮っていた時点としていいアルバム
 だったかもしれないけど・・・



【高価】
これはビデオが出たとき何に代えても手に入れないといけないと思い買いに行き
ました。
当時¥15000くらいしたんじゃないかな?とにかくビデオは高かった(T-T)

それが今じゃDVDで¥1500ですよ・・・1/10じゃんっ!w

(DVD買った今でもビデオは大事に保存してます^^)
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by shika_monologue | 2005-09-25 08:05 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)