カテゴリ:鉛の飛行船の話( 60 )

さらなる前進

LED ZEPPELIN Ⅲ」から13ヶ月、予定より大幅遅れてリリースされたアルバム
は、ついにトップに上り詰めることはなかった。
初登場以降4週目にして2位まで上昇したチャートは以後5週連続で2位に留まる
ことになる。
そのときトップに輝いていたのはキャロル・キングの名盤「つづれおり」だった。
しかし長い目で見るとその後4枚目はほとんどのロック・アルバムを凌駕する売上
を記録した。

世界中の雑誌やラジオ局の人気投票で「天国への階段」が史上最も人気の高い
ロック・チューンに選ばれているが、グラントは当時アトランティックからのシングル
カット要望には頑として首を縦に振らなかった・・・それが正解だったことは歴史が
物語っている。


英国では相変わらず評論家に叩かれていた彼らだったが、ここで微かな変化も
あった、かのローリングストーン誌である。

 英国のレモン絞りたちが作ったにしては悪くない。

初めてバンドの人気を認める姿勢を見せたのだ。
が、それ以上にペイジプラントはこのアルバムがバンドのキャリアにおける転機
になるだろうことは痛感していた。
ステアウェイ・アルバム」(マスコミに習いこう表記する)によって作品の基準は
恐ろしく高められ、並のバンドなら次の段階に進むことなど思いもよらないところで
あったが、彼らはもちろん並のバンドではなかった。

4枚目の余勢をかって彼らは1~2枚目のパワーと3~4枚目の幻想的なスタイル
の融合を考えていた。
アトランティックはその年の秋に5枚目のアルバムをリリースすることを望んでいた
が彼らは急かされるのを嫌った。

夏の終わり、4人は8ヶ月に及ぶ北米ツアーをスタートさせている。
ロックンロール」で始まり「胸いっぱいの愛を」で終わる構成はお馴染みのものに
なっていたが、わけてもジョンジーのステージでの役割は広げられ、電子ピアノや
オルガン、メロトロンといったキーボード群を操るようになっていた。

 ベースばかり弾いてると飽きちゃってね、今じゃ以前よりずっとオルガンを弾いて
 るしこの先ももっと集中してやりたいと思う。
 後ろにひっこんでるのは別に気にならない、ペイジみたいに前面に出てプレイす
 るのは性に合わなくてね、そりゃアーティストであるからには生来露出狂である
 わけだけど、他人を押しのけてまでって気にはなれないんだ。
 自分のやるべきことをするってのが本道だと思うし、ベーシストならベースでソロ
 を弾いて目立とうとするより、しっかりしたベース・ラインを送り出すのが務めだと
 思う。

いつものようにドラム・セットの向こうで楽しんでいるボンゾは、しかし以前に比べ
るとヘッドを破る回数はずっと少なくなっていた。

 ドラムを叩いているとワーッと叫びたい気分になる、景気付けのためにね。
 でもここ3回のツアーじゃ一度も皮を破っていない。
 

毎回力の限りショーを続けることがバンドの信条だった。
72年、二度目の日本ツアーのときジョンジーがインフルエンザに倒れ同行して
いたフィル・カーソンがその代役を務め公演記録にその名を残した。
ツェッペリンとステージと競演するという幸運を彼は手にしたのである。

そして1973年3月28日、春まで延期された5枚目のアルバム、ツェッペリンとして
は初のタイトル付きアルバムである「HOUSES OF THE HOLY」が発売された。

                                     (つづくw)


【いやぁ】
2度目のジャパン・ツアーのときにそんなことがあったことは、まだ幼かった私
はぜんぜん知らなかったんですねw

しかし元ベース・プレイヤーのフィル・カーソン、流石です(^^)
ジョンジーの代役ってめちゃ難しそうなのにねw
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by shika_monologue | 2005-07-30 00:01 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

象徴

4枚目のアルバムに記された4つのシンボル。                     (参照→)
今ではもうお馴染みになっていると思う。

でもこれがアルバム名なのかなんなのか?頭をひねった方も多いと思う。
これらのシンボルはアイスランドのルーン文字に似ていたことから、発表当時このアルバム
は「ルーン・アルバム」などと呼ばれた。

しかし一年後、ペイジはアイスランドとは何の関係もないことを告白している。

 あれは単なるもっともらしい噂に過ぎない。
 実際にルーン文字は真中のふたつだけ、4人でシンボルを選び出してその4つ合わせた
 ものがアルバム・タイトルになってるんだ。

プラントも・・・

 最初から「LED ZEPPELIN Ⅳ」はなしにしようって決めてあったから、じゃあなんて呼べば
 いいんだろう?って頭をひねった。
 で、結局それぞれでなんらかの意味をもったシンボルを選んでくることになった。
 心の状態とか・・・意見とか、強く感じていることでもなんでもいいからってね。


それぞれのシンボルについては、メンバーから説明がある。
まずはプラントの羽をあしらったもの・・・

ムー文明の神聖なシンボルから描き出したもの。
このシンボルは多種多様な哲学のベースになっていてそれにまつわる興味深い伝承も
あり、インディアンのあいだでは勇気の象徴としている部族も多い。

ボンゾの三つの輪は・・・

たぶんトリロジーだろう、男、女、子どもを表しているもの。
人間なら誰でも信仰の支柱にしてるんじゃないかな?
でもたしかピッツバーグだったと思うんだけど、これがバランタイン・ビールの社章に
なってるのを見かけてねw

ジョンジーのシンボルは・・・

ルーン文字に関する本から探してきた、自信に満ち有能な人物を表すらしい。
なぜなら正確に書き写すのがえらく難しいから。
ボンゾも同じ本から選んでいる、理由は単純に気に入ったかららしいけど。

最後のペイジのシンボルは・・・

自分でデザインしたもので、あれが「ZOSO」って単語だって誤解した人も多かったし、
実際に米国じゃあのアルバムを「ZOSO」って呼ぶのが習慣になってる。
残念ながらあれはそんな意味じゃなくマスコミを混乱させる作戦に過ぎなかった。


実際にアトランティックは全業界紙にシンボルの版を送った。
特殊なタイトルと文字情報のないアルバムという二つの前例が作られたことになる。


またペイジプラントは「天国への階段」誕生秘話を語っている。

ひとつだけ飛びぬけて際立った曲なんだ、あの曲のおかげでやっと音楽的にも相応
の敬意を払ってもらえるようになった。
ヘッドリー・グランジで二人が暖炉の前に座っていたとき、ペイジがすでに書き上げ
ていたコード進行を弾いて聞かせた。
するとプラントの手が自然に詞を書き出したという。
前半はブロン・イ・アーで過ごしたある晩に浮かんできた、残りのパートもだんだん
形になってきてレコーディングするころには皆がこの曲の可能性に興奮していた。
そのあと皆でアイデアを盛り込んで・・・たとえばボンゾは曲の後半になってから登場
してそこで雰囲気を一変させる・・・というふうに。
こうして曲とアレンジがごく自然に固まっていったんだ。
多少は手直しがあったが、ほんとに何の苦労もなく完成した。
あの時期に生まれるべくして生まれた曲、というか誰かに後押しされたような気が
する。


こうして生まれた運命の一曲、ジョンジーはまた彼独特のユーモアの交えて、

 あれ以来、誰も僕らをブラック・サバスと比較しなくなったよw

                                       (つづくw)



【最後の】
ジョンジーのジョークはなんともナイスです♪(^^)
しかしまあ、名作が出来るときって言うのは何もかもタイミングがあっちゃうもん
なんですね。
そんなときってホントに誰かがポン・・・と背中を押してくれるのかもしれませんね。
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by shika_monologue | 2005-07-24 07:34 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

超越

1971年11月8日、興奮の日本初公演が終わった晩秋にそれは発売されました。
手に取ったとき、そこには何のクレジットもなく・・・いや、バンド名やアルバム名
さえありませんでした。

d0021258_0235377.jpg

前作で評論家から酷評を受けた4人はそれなら・・・ということであえて何も表示
せずに新作を世に送り出します。
内容的には前作と同様、エレクトリックとアコースティックの融合による絶妙な
ナンバーが続きますが、そこにはより高度に完成された姿がありました。

フォー・シンボルズ」「ルーン・アルバム」など、いろいろな呼び方がされます
が一ついえることは・・・

ツェッペリンの、というより、ロック史上に残る名作中の名作が誕生したという
わけです。


BLACK DOG
この4枚目A面はとにもかくにもツェッペリンを語るうえで避けては通れない
名曲で溢れていますが、この曲も独特のノリで迫ってきます。
ポリリズムという手法でトリッキーに聴こえますが、なかなかドラムとの連携
が上手くいかなかった苦い思い出がありますね(^^;)
またギター・ソロの最初の部分がなかなか指動かなくてねw
「THE SONG REMAINS THE SAME」と並び、苦労した曲ではありました。

ROCK AND ROLL
しばらくライヴのオープニング曲にもなってました、ストレートなロケンロール
ですw
ここでは普通にリズムとシンクロしたプレイをしてますが、ライヴではギター
が前ノリ的に弾かれており、よりその魅力を引き出してます(^^)
ツェッペリンがオーソドックスにロックンロールを演奏るとこうなるよ、みたい
な理屈抜きで楽しめる一曲です。
しかし、この曲を15分で作っちゃいます」かね・・・普通(-_-;)

THE BATTLE OF EVERMORE
フェアポート・コンヴェンションのシンガー、サンディ・デニーを迎えてプラント
との掛け合いも絶妙なアコースティック・ナンバーです。
スコットランド戦争の伝承文学を読んだプラントが詞を書き、マンドリンで
ペイジが曲をつけたというこの曲は、後年ペイジ=プラントでも演奏されま
したが、このときはパキスタンの歌手、故・ヌスラット・ファテ・アリ・ハーン
が参加してました。

STAIRWAY TO HEAVEN
(^^)
( ̄0 ̄)
(T-T)
(-_-;)
・・・・・・・・・・
輝くものすべてが黄金と信じている女性がいた・・・・・
(ToT)
この曲については何も語りません、皆さんの耳で確かめてくださいm(_ _)m

MISTY MOUNTAIN HOP
ジョンジーのキーボードで始まる軽快な曲ですが、そこはボンゾのドラム
が重厚さを加味していて「なんであのシンプルなセットでこんな音が出る
んだろう?」と真剣に考えましたw
ペイジのギターとプラントのヴォーカルがユニゾンするAメロのまったりした
中にも突き刺さるような刺激がお気に入りです(^^)

FOUR STICKS
文字通りボンゾが4本のスティックを握って演奏した曲、迫力のドラミング
に見え隠れするスティック同士が当たるカチカチという音が素敵です♪
ツェッペリン流変拍子というか、これほど5/4拍子というものが自然に
聴こえた曲も珍しいです。

GOING TO CALIFORNIA
ジョニ・ミッチェルに捧げたと言われますが、もともとはカリフォルニアの
地震を題材にしたナンバー。
その後、ペイジ達がミキシングのためLAに行ったとき地震に見舞われた
というエピソードもあります(^^;)
この後しばらくアコースティック・セットの中でも演奏されました。

WHEN THE LEVEE BREAK
こりゃーヘヴィなナンバーです(^^;)
ボンゾのドラム、ペイジのギター、ジョンジーのベース、さらにはプラント
のヴォーカル&ハープに至るまで「重い」ですw
曲の終わりのほうで音がぐるぐる回りますが酔いそうになっちゃいますね。
もともとはメンフィス・ミニーのブルースなんですが・・・原曲を聴いてない
んで詳しいことは判りません、どんなんだったんだろ(^^;)


4枚目のアルバム・ジャケットにはグループ名もタイトルも、何も入れない
でおこうと前から決めてたんだ、「ツェッペリン」という名前自体には意味
はないんだ、問題は中身さ。
                              -ジミー・ペイジ

と語られるように、目の敵にされていた世の評論家に対する彼らなりの
アンチテーゼというか、反骨精神みたいなのが後世に残る名盤を生み
出したんで今となっては有難いことだったようです(^^)

STAIRWAY TO HEAVEN」はロックを代表する永遠のスタンダード・・・・
この曲を追い越すような一曲が生み出されることを願っているのは実は
私たちかもしれませんね。

翌年秋、再度ツェッペリンは日本にやってきました。
10月2日の武道館を皮切りにスタートしたジャパン・ツアー、これが最後
になりました。
10月9日、大阪フェスティバルホールで行われた大阪公演、その空気を
共有することのできた私は・・・・・幸せ者でした。
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by shika_monologue | 2005-07-18 00:25 | 鉛の飛行船の話 | Comments(0)

難関

最後の、そして一番大きな問題は4枚目のジャケット・デザインだった。

表面に一切、何のクレジットもないジャケット。
それは前代未聞であり、発売元であるレコード会社は猛反対をする。


ビートルズ以降、アーティストがデザインに口を出すことは通例化してきた感はあったが
それは常識の範囲内・・・あまりに突飛なデザインを提案された場合はレコード会社側は
拒否権を発動できる、という条項を振りかざしてきたのである。
もちろんレコードを製品として世に送り出すのはレーベルの仕事であり、レコード会社が
その方法について熟知しているという主張は当然かもしれない。
しかし、そこにはもっと別の・・・次元の違う問題があり、そうした立場の違いが大きな論争
を呼ぶことになった。

 (その問題となったジャケット・・・皆さんはすでによくご存知でしょうがここでは話の筋の
  ため、一応書いておくことにします)

」をマスコミにさんざんけなされた結果、彼らはすこし危うい立場にあった。
ツェッペリンの(というよりプラントの)セクシーさばかりを云々する記事も少なくなくバンド
のイメージが損なわれる危険性があった。

これらの言いがかりを払拭するためにも彼らは自分たちの音楽とリスナーとの接点に何
も介さないことに決めた。
」~「」についてジャケットの印刷に不満を抱いていた彼らの意向はピーター・グラント
を通じてアトランティックに伝えられたが、そういう事態をまったく予想していなかった連中
は慌てに慌てた。

 4枚目のアルバムではあえてグループ名を外し、外側から一切の情報を排除する。
 名前とか曲名とか、それらは何の意味ももたない、意味があるのは僕らの音楽だけ。
 音楽が良くなければ誰も僕らの名前に関心を持ったりしない、逆に音楽さえよければ
 名前なんて関係なくちゃんと聴衆の耳に届くはずだ。
 4枚目のジャケットにはどこにも「LED ZEPPELIN」の名前は出てこないし、お決まりの
 クレジットも全部省いてある。
 純粋に音楽だけで勝負がしたいんだ。

 バンドのイメージ作りにジャケットがどれだけ重要かということを認識してほしい。
 デザインがこちらの希望通りにならなければマスターテープは渡さない。


膠着状態は数日間続いた。
アトランティックはこうした前例を作ることを恐れたが、最終的にこの記念碑的なデザイン
を渋々ながら認めることとなり、幻想的なジャケットは見るものにショックを与えた。

ペイジがそのジャケットについての解説をしている。

 木を背負った老人は自然と調和した状態にある、自然から採ったものを土に返して
 いるからだ。
 自然のサイクルに沿っているわけで何の問題もない。
 しかし昔ながらの山小屋が撤去されて老人は都会のスラムに無理やり住まわされ
 てしまう。
 インナーの隠者は、真実と啓示の光をふもとにいる若者にかざしている。
 タロー(タロット)カードに詳しければ隠者の意味も判るはずだ。

 【解説】
 タローカードにおける隠者の一般的な意味は、「『一歩引いたり熟考することなく現行
 の道をそのまま進んでいくこと』に対する特別な警告」。


マスター・テープとアート・ワークを完成させた4人は戸惑うアトランティックを尻目に
ツアーに乗り出し、途中ハワイで一週間の休暇を挟んで「移民の歌」がナンバー1に
つけていた日本で初となるツアーを開始させた。
メンバーはこの10日間を大いに楽しむことになる。

日本へは例によってフィル・カーソンが同行していたが、彼はこの旅を満喫するととも
に、時には妥協を迫られたり、時には抜き差しならない立場に追い込まれたりした。
そのひとつが東京ヒルトンにおける乱痴気騒ぎ。

長期のホテル住まいで鬱憤の溜まっていた一行は気晴らしにいろんなイタズラを
仕掛けていたが、ある時プラントが間違ってカーソンの枕を窓の外に放り投げて
しまった。
やむなく窓から這い出したカーソンだが格好はバスタオル一枚だけ、警備員に通報
された彼は事情を説明するのに大汗をかいた。

こんな事件もある。
広島での公演を終えて大阪・京都方面に向かう車内、そのころイタズラの対象は
ペイジになっていたがジョンジーは間違えてグラントに仕掛けてしまった。
(その後の騒ぎは彼らの名誉のため省略させていただくが)同席していた日本の
宣伝マンは顔面蒼白でクビを覚悟していた・・・コレが原因でバンドが解散すると
思ったようだが、彼らにとってはそれは日常茶飯事だったのである。

翌日の新聞には一面で騒ぎの一部始終が報道されたが・・・


こうして嵐のような一行が日本を去った晩秋の1971年11月8日、一切何の情報も
なく中身が計り知れない一枚のアルバムが発売された。

                                     (つづくw)


【アルバム名】
といっても無いんだから仕方ないですが、それゆえに様々な呼び方をされるように
なった4枚目。
ルーン・アルバム」なんて呼ばれ方もしますね(^^)
それはインナーの曲名の上に書かれた四つのシンボルを表しています。

これらについてはそれぞれ本人が解説していたりするんですが、また機会があれば
紹介したいと思います・・・・・塩バターコーンラーメン♪(^0^)ノ
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by shika_monologue | 2005-07-14 00:07 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

時代

1971年の真冬、元ビートルズとしては初の1位を獲得したのはジョージ・ハリスン
マイ・スウィート・ロード」だった。
その後もドーンの「ノックは3回」、オズモンズの「ワン・バッド・アップル」などなど、
次々と首位は入れ替わり、シングル・ヒットを狙うという手法は混迷していく。

変革の機は熟していた。
アルバムでのトータル・プロデュースによる作品主体の時代に入ろうとしていたので
ある。

クリスマス直前から開始されたレコーディングは最小限のスタッフ以外はメンバー
のみという状況で、バンドはますます一体感を強めていった。


そんな中、欧州でのツアーを開始させた4人はかつてない障害に突き当たる。
ミラノでの出来事・・・

観客と警官との衝突で催涙弾まで飛び出す騒動の中、早々とステージを終わらせ
て楽屋に引き上げるメンバー。
しかし楽器を守ろうとするローディたちは騒ぎに巻き込まれ、流血して病院に送られ
るものもいた。
さらにやっとの思いでホテルにたどり着いた彼らに現場に居合わせた記者がやって
きてインタヴューしようとする始末、結局例によってボンゾが「説得」して記者は退散
することになる。
この騒ぎに比べるとその後のツアーは穏やかなもので、その年の秋には初めて
日本の土を踏んでいる。


こうした日々でバンドの意気はあがる一方で、3枚連続のプラチナ・ディスク獲得、
冬の間、評論家連中や悪意に満ちた解散説に悩まされていたが、この頃には余り
気にならなくなっていた。
とはいえ、こうしたアルバム主体のバンドの先駆者としてのプレッシャーは、日々
高まっていく。

その後続々登場する「第二世代」バンドもめきめきと頭角を表してくる。
ブラック・サバスエマーソン・レイク&パーマージェスロ・タルユーライア・ヒープ
米国ではグランド・ファンク・レイルロードMC5レア・アースなどツェッペリン
手法を取り入れたバンドや、マウンテンジェイムズ・ギャングステッペンウルフ
なども急速に聴衆を増やしていった。

これらのプレッシャーをものともせず、バンドは新鮮な気持ちで4枚目のアルバム
制作に挑み、何曲かの新曲を完成させたのに加えて、着手してからすでに数ヶ月
になる「謎の曲」の仕上げに取り組んでいた。

 ニュー・アルバムで(様々なプレッシャーと)雌雄を決するだけじゃなく、自分達も
 納得させなきゃならないって感じだった。
                                 -ジミー・ペイジ

本格的にレコーディングに入ったときには想像もしなかった苦労が4枚目の制作
にはつきまとうことになるのだが、こうした決意がその苦難を切り抜ける原動力に
もなっていたのである。

まずレコーディングの場所決めの時点で最初の変更が生じた。
それまで彼らはほとんどありきたりのスタジオでレコーディングしていたが創造性
を十分に発揮するには、けして最適とは言えなかった。
そこでハンプシャーにあるヘッドリィ・グランジというプライベートな場所に機材を
持ち込むこととなり、これはスタジオを離れたことによる有効性を思い知らしめる。
この件についてはペイジが語っている。

 思いついたアイデアをその場でテープに収められるなんて理想的だと思った。
 ただ一つ問題だったのは急ぎすぎたってこと、アイデアの段階で興奮しちゃって
 大急ぎで曲の形に仕上げて録音してしまったからね。
 僕の場合、スタジオ・ノイローゼというか、以前のセッション・プレイヤー時代と
 なんら変わらなくなってしまう・・・これが自宅にスタジオを作った理由のひとつ
 なんだ、赤ランプのプレッシャーなしで、自分の好きな時間にレコーディング
 できるんだから。


この時点で彼らは初期の数々のセッションから、少なくとも1ダースほどの完成
段階にある曲をテープに収めていたが、そこにヘッドリィ・グランジでの成果が
加えられて最終的に候補曲が14曲程度に絞り込まれた。

けっきょく4枚目のアルバム用に8曲を選び抜いたが、それを2トラックステレオ
にミックス・ダウンする時点で更なる問題が起こる。
エンジニアの勧めでLAのサンセット・スタジオで作業を行ったが、それが全く
出来が悪く、新しいエンジニアを探して再度ミキシングする必要があった。
実際には機材に問題があって、英国に戻って聞いてみるとこれまた使い物に
ならなかったのである。

                                 (マジで、つづくw)


【今回は】
このエピソード、ホントに次回に続いてたりするw
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by shika_monologue | 2005-07-10 00:07 | 鉛の飛行船の話 | Comments(3)

変化

サード・アルバムが完成する頃、5度目の北米ツアーで彼らのライヴは大きく変化
していた。

まず出演料が飛躍的にアップし、それと同時に彼らはいっさいオープニング・アクト
を使わないことにした、これにより彼らが会場の消灯時間を気にすることなく2時間
を超えるコンサートを毎晩繰り広げることができるようになった。
9月19日、MSGで行われたライヴで初めて一晩の公演で10万ドル超の興行収入
をあげたのである。

帰国後、ペイジは北米での人気をこう描写している。

 むこうではプラントが次代のミック・ジャガーのように言ってるけど僕らからビッグ
 でセクシーなイメージを打ち出そうとしたことはない・・・セクシーさ云々をイメージ
 の軸にすることはバカげている、今の時代、一番のポイントになるのは音楽さ。

この言葉が物語るように、ペイジは「」での新しい音楽に大きな自信を持ってい
たのだろう。
同時にこのアルバムは歴史的な成功を収めた前作に続くものとして注目を集めて
いた。
しかし一方で彼らのハードロックを愛する何十万というファンに、足元をすくわれた
ようなショックを与えるであろうことをバンドは本能的に察知していたが、それは
どうあっても避けがたい事態だった。

」を聴いた瞬間、バンドのスタイルとしてのバリエーションがはっきり感じ取れ
ると思う。
ヘヴィなリフ中心の曲とは違うアコースティック色濃いサウンドだが、全曲に共通
する驚くべきパワーは変わっていない。
ここでもっとも影響したのは、プラントの音楽性と、それまで抑えられていたペイジ
のトラディッショナル・フォークに対する憧れである。
もとよりプラントツェッペリンに加入したときからモビー・グレイブバッファロー
スプリングフィールド
といった個人的好みと、バンドのハードなアプローチを融合
することは不可能ではないと主張していた。

 前々から僕はツェッペリンらしさをなくさない範囲でああいう分野に足を踏み入れ
 たいと思っていた、前の2作で僕に欲求不満が残っていたという風に見る人もい
 るかも知れないが、とりあえずこのアルバムは僕の望んでいた方向に進んでる
 とだけは言える。


多分にもれず酷評された「」だが、メンバーから見た唯一の問題はジャケットの
デザインだった。
その中に収められた音楽同様に革新的なデザインを目指していたが出来てきた
デザインは目立つものではあったがメンバー全員の期待を遥かに下回っていた。
ペイジはこう語る・・・

 園芸用のカレンダーとか動物のサイクル表みたいなものになるはずだったんだ
 腕のいいデザイナーだったけど意図がうまく伝わらなかった、締め切りもあった
 から妥協してしまったけど。

はたして意図がうまく伝わったジャケットというのはどういうものだったんだろう?
今からでも遅くないので見てみたいものではある。

こうして発売された「」は24日付けのチャートに3位で初登場(このとき同時に
リリースされたオールマン・ブラザーズのセカンド・アルバムが初のチャートイン
を達成している)、2週目には首位に輝き以後一ヶ月に渡ってその座をキープす
ることになる。

これまた例によって米国のAM局とアトランティックからシングル・カットが熱望さ
れ、バンドは乗り気でなかったものの「移民の歌」が発売されたが、本国では
リリースされなかった。
フィル・カーソン(アトランティックの欧州担当:前出)はピーター・グラントに対して
打診するそぶりすら見せていなかった。

結局「」は31週という短期間(前2作に比べれば)でチャートから姿を消すこと
になったが、これは評論家による批判も一因になっていたのかも知れない。

皮肉なことにデビュー当時そのパワフルさを馬鹿にしていた連中が今度はそう
したスタイルから抜け出そうとしていた彼らを物笑いの種にしたのである。
これ以降バンドはなおのことシングルを嫌うようになった、一貫した姿勢から
切り取っただけのシングルを自分たちの代名詞にされてしまうからだった。

一方、バンドの成功が確固たるものになるにつれ、「解散するかも・・・」という
無責任な噂が流れ始めた。
しかし彼らのアコースティックな成長を拒否しつづけるマスコミをよそに、「
のリリースに先立ってより深い何かが生み出されようとしていた。

ペイジプラントはブロン・イ・アーでの多くの発想の中から生まれた秘密の
新曲に心を奪われていた・・・

 ひとつアイデアがあって・・・すごく長い曲のアイデアなんだけど「幻惑されて
 みたいに途中でがらっと雰囲気が変わる・・・アレの新しい形というか。
 失敗するといけないからこれ以上は言えないけど・・・でも間違いなく成功する
 と思うよ。


とにかく「」の商業的失望で彼らが落ち込んでいると思うのは早計だった。
それどころか彼らはその後のロック史に燦然と輝くであろう決意表明ともいう
べき曲の初期ヴァージョンに着手していた。

彼らは「天国への階段」の最初の一段を登ろうとしていたのである。


                                     (つづくw)



【たしかにね】
一年以上に渡ってチャートインした一枚目、二枚目に比べたら31週っていうのは
短いですが、それでもそうとうなもんですよねw

なぜ私が ZEPPELIN にこんなに惹かれるのか・・・私ももともとフォークから音楽
に入ったんで、ペイジプラントの根底に流れるものに共鳴してしまったのかも
しれません(^^)
このアルバムにしても「IMMIGRANT SONG」などハードでヘヴィな曲も好きですが、
FRIENDS」「GALLOWS POLE」みたいなトラディッショナルな曲も大好きなんです♪




あ、今日は七夕だ・・・晴れてるといいなっ!(^^)
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by shika_monologue | 2005-07-07 00:08 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

転換

1970年10月5日、貴方は何を・・・・(しつこいっ!w)
ギミック付のジャケットに収められたこのアルバム、賛否両論ありますが
皆さんはどう見るでしょうか?

d0021258_726366.jpg

アコースティックが多用され、この後のライヴでは初めてアコースティック
セットが組まれることになります。

当時、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングと比較され、ツェッペリン
はアコースティックに身売りしたとまで言われた問題作です。
実のところ、ペイジとプラントがブロン・イ・アー(ウェールズ語で「黄金の胸」
を意味する)に休暇で滞在していた時期に書かれた曲が多く、その環境が
ペイジのフォーク趣味、プラントのウェストコースト趣味を呼び起こしたため
こういう色彩になったみたいですね。


IMMIGRANT SONG
プラントの雄たけびで始まるこの曲、翌年の日本初公演でオープニングを
飾りました。
今ではTVなどでもよく使われますが、プラントがよく読んでいた英国史や
ケルトの本にインスパイアされて作詞した曲です。
ペイジのリフもスケール練習のごとくフィンガーボードを駆け上るジョンジー
のベースも好き♪
そして何より、今のへヴィメタルなんか目じゃないくらい「重い」ボンゾの
ドラミング(このへんサラッと軽く聴こえてしまうけど、実際めちゃヘヴィ
ですw)が聴ける一曲ですね(^^)

FRIENDS
「CACGCE」という変則チューニングのアコースティック・ギターが織り成す
リフが印象的な、なんか民族音楽を思わせる曲です。
6弦を「C」まで落としちゃうとけっこうべろんべろんになっちゃいますが、
そういうビビり具合も曲の一部としちゃうペイジのセンスに脱帽です。
「DADGAD」もそうですが、このへんのオープンチューニング、適当に1,
2弦あたりを押さえて引いてると上手く聴こえてしまうという・・・アコギ
やってる方は是非試してくださいw

CELEBRATION DAY
前曲からまるで戦闘機が落ちていくようなブリッジで繋がれた、こちらは
ロックなナンバーです。
思いっきりダビングされたギターは何本も重なって聴こえてきて、そこに
変則的に被さってくるリズム・セクションが不思議な感覚にします。
これはもともとペイジがダビング作業をしているときに間違って録音済み
トラックの最初を消してしまったため、絶妙にタイミングがずれたような効果
をもたらしたものらしいですw

SINCE I'VE BEEN LOVING YOU
まるでジャニス・ジョプリンのようなブルース・ナンバーで、このアルバム
では珍しい曲になってます。
ペイジのソロ、ジョンジーのオルガンが効いていてライヴでもお馴染みの
一曲ですね(^^)
プラントも思いっきりシャウトしちゃってますw

OUT ON THE TILES
ブレイク(ドラム以外)を多用したハードな曲。
しかしなんでこんなリフを思いつけるんでしょうか?
ギター、ベース、それにヴォーカルとすべてが絡み合って物凄いグルーヴ
感で迫ってきます。
またそこにボンゾのドラムが重なるとストレートに響いてくるから不思議
ですね♪

GALLOWS POLE
6弦、12弦のギターやらバンジョーやら、アコースティック楽器が満載
された曲です。
後にペイジ&プラントのアンプラグトでも演奏されましたがもともと生の
音が多いんで違和感はなかったですね。
このアルバムの中じゃけっこう好きな一曲です(^^)
オリジナルはレッドベリーの曲ですが、ペイジは白人で初めて12弦を
使ったといわれるフレッド・ゲーラックのヴァージョンを元にしたようです。

TANGERINE
このあたりからフォーク然とした曲が続きます。
ライヴのアコースティック・セットではメンバーが椅子に座ってこのへんの
ナンバーをやってました。
よくペイジ、プラント、ジョンジーの3人が肩並べて座ってる写真をみかけ
ますがこの時代のものが多いようですね。

THAT'S THE WAY
ファンクで同名の曲がありましたがw
たしかにこのへんのラインナップはA面の曲とは対比的に並べられてい
て、ちょっとエレクトリックを取り入れたフォーク・グループがやっていても
不思議ではないですが、そこはそれ、やはりツェッペリンのナンバー。
独特の雰囲気は健在です(^^)

BRON-Y-AUR STOMP
二人が過ごしていた英国の片田舎(なのかどうかは行ったことがない
ので判りませんがw)の風景が目に浮かぶような静かな曲です。
哀愁さえ感じちゃいますが前作からのメンバーの置かれていた状態と
いうか、そういうのが伝わってきて評論家に酷評されたこのアルバムも
結局はファンに受け入れられて成功を収めることになります。

HATS OFF TO (ROY) HARPER
一転して聴いた瞬間「なんじゃこりゃ」と思わせるような怪作w
テープを逆回しにしたような(実際に逆回ししてるのかな?)サウンドで
歌詞もよく聴き取れません(^^;)
LPの歌詞カードにも「歌詞聴き取り不能により未掲載」と書かれてい
ましたw
タイトルのロイ・ハーパーとはペイジがリスペクトしていたシンガーソング
ライターで、よく共演してましたね。


しかし、とにかくこき下ろされたこのアルバムですがどんどん変化、進歩
していくツェッペリンのある一面、ということではすごく興味深い一枚です。
このときのエネルギーがかの4枚目を生み出す原動力となるわけですし
なによりも1枚目から通して聴くと、まったく違和感を感じないんですね。


そして翌年9月、飛行船は日本にも飛んでまいりました♪(^^)
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by shika_monologue | 2005-07-03 07:27 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

自然派

エンターテイメントの60年代も終わりかけていた頃、カナダにいたジョン・レノンは平和
について語り、ロンドンのポール・マッカートニーザ・ビートルズに終焉を告げようと
していた・・・ヴェトナムではナパーム弾が降り注いでいた時代である。

ツェッペリンはツアーのため欧州に舞い戻ったが70年代に入ってすぐ、デンマークでは
事件が起こる。


4人にとっては「ニュー・ヤードバーズ」以来の訪問だったが、新しいバンド名が彼らの
立場を厄介なものにした。

「私たちのファミリーネームを使って金儲けするのは許せない」と一人の女性が抗議
したのである。
ドイツ人技師の血縁者にあたる彼女の名前は’エヴァ・フォン・ツェッペリン’。
スタジオまで押しかけて文句をいう彼女から逃れるため、彼らはとりあえず改名する
必要があった。
コンサート直前に『ザ・ノブス』と名乗った4人であるが・・・英国のスラングに詳しい方
にとってはニヤッとする名前かもしれない。

翌日にはさらなる事件が起こる・・・


アート関係に造詣が深いと聞いていたデンマークのプロモーターの勧めでギャラリー
で記者会見を開いた彼らであったが、ペイジは「ここにはクズみたいな作品しかない」
と言い出した。
なかでも、スウェーデンの高名な印象派の一連の作品がいたく「気に入った」彼らは
酔いに任せてまだ油絵の具も乾いていないその作品3点に「手を入れて」しまった。
当時アトランティックのヨーロッパ担当ディレクターに昇進したばかりのフィル・カーソン
は戦慄した・・・さっそくギャラリーのオーナーに損害賠償の交渉をしたが当のオーナー
にも元と違っていることを確認できたのは1作品だけだった。
他の2作品は・・・どこをどう変えたのかも判らない有様で、けっきょく1作だけの弁償
で済んだのだった。

今でこそ笑い話になっているが、当時はこうした所業の数々で世界中に悪名を馳せ
ることとなったのである。


しかしこうした日々の中で、彼ら自身は反発する評論家たちとの戦いから自分たちの
音楽が微妙に変わってきていることに気付いていた。
いつも当たり前のようになにかに向かって動いていたツェッペリンは新たな創造へと
移り変わっていく。

そろそろ休みを取ったほうがいいんじゃないか?、というペイジの呼びかけに応えた
プラントは子供の頃両親と行ったことのあるサウス・ウェールズのコテージに篭って
みたらどうかと提案し、ガールフレンドや家族を同行して曲つくりに励むことになった。

キャンプ・ファイヤーなどに興じながら、夜が明けると曲を作る・・・そういった生活の
中での創作活動は今までのものとは異なった展開を見せていた。


日々、谷を横切っていく一条の光にちなみ「ブロン・イ・アー」と名付けられたその
コテージはとりわけ風光明媚なサウス・スノウドニアのダヴィ川沿いにあった。

あるときペイジプラントは近場の大邸宅を訪れたことがある。
ギターを持っていた若者が自作の曲を弾いているのを見てプラントは自分も拙い
腕前を披露したが、別の若者がペイジにも弾いてみるように薦めるのをうけて、
「彼は弾き方を知らないんだ」、とやんわり断ったという。
その若者たちは後に彼らの正体を知ったのだろうか・・・本人に訊いてみたい気も
する。


4度目のツアーがバンクーバーから始まった春のある日、またまた事件は起こった。
ツアー・マネージャーのリチャード・コールが客席に突き出すマイクを発見したのが
事の発端、彼はローディに命じて楽屋に引きずり込みマイクとレコーダーを破壊し
たのだが、実はカナダ政府から正式に派遣されて会場の騒音を計測していた職員
だったのである。
結果的に後年、この件が解決するまでバンドはカナダに出入りが出来なくなるの
だが、舞台裏では例によってつむじを曲げたボンゾが楽屋に1500ドルの損害を
出しており、これまたいつものようにピーター・グラントが弁償している。
しかしその背景には当時の海賊盤業者との熾烈な戦いが思い起こされる。

  実際に当時は数多くの海賊盤が横行しており、音楽雑誌などにも堂々と広告
  が打たれていました。が、私はこういった海賊盤を買ったことがありません。
  音が悪いというのも当然のことながら、本人たちの望んでいない作品を聴いて
  ファンとして嬉しいわけがないからです。
  ファンの中には「オレはこんなのも聴いた」、「こんなライヴ盤も持っている」と
  自慢気に話している人もいましたが、本当のファンなら・・・彼らが嫌がっている
  ものを欲しがるというのはどうなんだろう?
  先日某所で「需要と供給」の話題がありましたが、ここにもその問題は存在
  していたと思います。



とにかく目の回るようなスケジュールの中で作られた前作と違ったアプローチが
とられたサード・アルバムだがペイジは・・・

 ニュー・アルバムは僕らが作った中でも一番意義深い作品になるんじゃないかな、
 別にポリシーを曲げるわけじゃない、何曲か静かなアコースティック・ナンバーも
 入っているけど、僕らはやっぱりヘヴィ・バンドなんだ。

プラントもこう語っていた。

 記事の内容が目に浮かぶようだ、『ツェッペリン、ソフト路線に走る』とかね。
 たしかに以前からアコースティックをやりたいと思ってたし、実際ニュー・アルバム
 では何曲か使っているけど、本質的な違いはないと思う。
 今の僕らがやらないといけないのは自分たちの到達したポジションを見つめ直す
 こと、そうすれば本当に言いたいことも言えるだろうし。


そうして、新しい10年間の始まりでもある1970年10月5日、「LED ZEPPELIN Ⅲ
が発売された。

                                       (つづくw)



【シリーズ】
このシリーズももう13回目なんですよ・・・でもやっとアルバムは2枚しか出てないw
「CODA」まででもアルバム10枚、先は長いなぁ・・・・・(^^;)
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by shika_monologue | 2005-06-29 00:08 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

好機

3度目のツアーも終盤にさしかかったころ、バンドは結成一周年を迎えていた。
評論家の予想とは裏腹に彼らは消え去る気配もなかったが、マスコミはこの機会に
ツェッペリン現象を分析しようと試みる。

 バンドの圧倒的な人気を理論的に説明できないものか?


だが、彼らのミュージシャンとしての技量や、類を見ないライヴの価値に注目したの
はほんの一握り、大半の関係者はその圧倒的な成功を持て余していた。
「異形」、「偶発的な事故」、「運命の気まぐれ」・・・様々な暴言が吐かれる。

 ・よくできた金儲けマシンである
 ・でっちあげだけを頼りにあれだけの成功を収めた
 ・プラントDoorsジム・モリスンの模倣にすぎない
 ・彼らの観客は重度の麻薬中毒者だ
     etc.

当初から、その成功を予見できなかったマスコミは、こうした言いがかりをつけること
で自分たちを正当化することに懸命だった。

モリスンのパクリだと言われたプラントは、

 単に誰かの抜けた穴を埋めるだけなら苦労はしない、いわゆるツェッペリン・クローン
 ってやつも山ほど見たが、いかに上手くパクったところでオリジナルとは絶対に呼ば
 れない、僕が思うにツェッペリンは明らかにオリジナルだったんだ。

普段温和なジョンジーも皮肉たっぷりに、

 ラリっちゃって正気を失っている人たちにも僕らのよさが判ってもらえればうれしい。

東海岸の評論家、エレン・サンダーは自身の著書の中でこう中傷している。

 彼らの成功は巧妙なプロモーション戦略によって築かれている。
 前のアルバムが頭打ちになったところでタイミングよくニュー・アルバムをリリース
 することで彼らの名前は常にメディアに露出していなければならない。

ここでも大きな間違いがある、彼らの音楽性については一言も触れられていない。
事実と一番異なるところは、前回の記事でも書いたように「ツェッペリンはほとんど
プロモーション戦略などの世話になっていない」という点である。
(シングル・カットを頑なに拒否したその姿勢にも見て取れるのだが・・・・)

メジャーなミューシック・シーンに登場する以上、商業的成功というものは無視する
ことはできない、そのために彼らは最善を尽くす努力をしてきた。
しかしそれは間違いだといえるだろうか?他のあらゆるアーティストと同様、利益を
優先することは否定できない。

ビートルズが英国で何度も法廷闘争をしてきたのは、いずれも直接金銭が絡んで
いたからに他ならない、自己満足のために音楽に関わっているミュージシャンなど、
存在しない、彼らはボランティアでやっているわけではないのである。
資本主義のなかで彼らが途方もない報酬を受けていることは至極当然のことで
ある、以外の方法で不当な高額報酬を搾取している連中のほうがずっと多い。

ツェッペリンを「金目当てのでっち上げ」とした評論家たちには、彼らの音楽性など
はまったく関係のないものだった。

しかし、ツェッペリンの音楽が計算だけで作れるものでないことは歴史が物語って
いる。
もし彼らのうちの一人でも違っていれば、今残っているツェッペリンの音楽とは全く
違うものになっていただろうし、ヘタすればスタンダードとして残っていなかったか
もしれないのだ。

ペイジは冗談混じりに自分たちの成功についてこう語っている・・・

 たぶん僕らはちょうどいい時に、ちょうどいい音楽を、ちょうどいい人たちに向け
 てプレイしたんだろう。


                                    (つづくw)


※ここから先はオマケです、トバしていただいても全然OKですw

【評論家】
私は評論家ではないし、LED ZEPPELIN のファンです。
でも、それだけで彼らを賛辞してるわけじゃないんですね。

よくネットショップなんかで「レビュー」というのが載ってるのをご存知ですか?
そこで目にすること・・・
いろんなミュージシャンのアルバムなり、楽曲についてこんなことを書いてます。

 ・ファンというものは盲目的にミュージシャンとその音楽について崇拝している。
  でも自分は出来がよくないものについてははっきり「出来が悪い」という。
 ・これは捨てアルバム、捨て曲だ。
 ・よくこんなアルバムを作ったものだ。


疑問です、なぜそのアルバムなり楽曲なりが「出来が悪い」と貴方に判るのか?
自分も曲を作るから判るけど、「これはしょーもないな」と思いながらレコーディング
するミュージシャンなんてこの世には存在しません。
みんな自分の作品には自信を持って世に送り出します。
商業的な成功・不成功と出来・不出来は別物です。
見ていると商業的に不成功(ようするに売れなかったw)ものに対してそういう評
が多いようです、楽曲の中身にはひとつも注目しないでね。

もちろん私もツェッペリンの曲の中には好きな曲もそうでないものもあります。
しかしそれは「私の主観」であって「良い・悪い」ではありません。
人が作ったものについて「良い・悪い」を判断すること自体、私は嫌いです。
最近流行りのものについても、私は「嫌い」なだけであって「出来が悪い」とは
思っていないんですね。

ミュージシャンにとって作品は自分の子供と同じ、ただの一作も「捨て」はない
と思います。

前出のレビュワーなどは「自分の中で嫌い」なものを「出来が悪い」とはき違えて
いるような気がします、相対的な見方でね。

こんな人もいます。

 ・このバンドはあのギタリストを失ってからカスになった。
 ・この人のヴォーカルさえなければ最高だ。


なら貴方がやってごらんなさい、そのバンドの足元にでもひっかかれば誉めて
あげます、絶賛もしてあげましょう。
単に自分の趣味でバンドなりメンバーなりを「カス」扱いする・・・

それこそ「盲目的」であると思うのは私だけでしょうか?


ちなみに何度もいいますが、「私は最近の『踊る音楽』は大嫌い」です(爆)
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by shika_monologue | 2005-06-25 01:07 | 鉛の飛行船の話 | Comments(5)

妥協

セカンド・アルバムは一年足らずの間にツアーのため3度目の渡米をした数日後に
発売された。

ビルボードではファースト・アルバムが38週目にして18位と好位置につけており、
すでに78万枚を売り上げていたが「」は予約だけで50万枚を超え、リリースと同時
にゴールド・ディスクに輝いたのである。
同じ頃発売された THE BEATLES の「ABBEY ROAD」、STONES の「LET IT BREED
とともに熾烈なチャート争いを繰り広げるであろうことは容易に想像できた。

リリースから一ヵ月後には2位まで上昇したが、そのときの首位は「ABBEY ROAD」、
その座を奪い取るのは不可能と思われた。
しかし、60年代最後のクリスマスを控えたある日、アトランティックは興奮のうちに
ロンドンのピーター・グラントとメンバーに宛てて打電していた。
12月27日付けのチャートで、とうとう「LED ZEPPELIN Ⅱ」は「ABBEY ROAD」を蹴落
として1位に輝いてしまったのである。

その後7週に渡り首位をキープしていたセカンド・アルバムがその座を譲ったのが、
SIMON & GARFUNKEL の「BRIDGE OVER TROUBLED WATER」だった。
後に歴史に残る銘版がこの時代に多数リリースされているということ・・・・その事実
が「イコール、昨今の音楽業界の不振」とまでは言わないが、なんとユニークな個性
に富んだ面々が揃っていた時代だったんだろう、と思わざるを得ない。
今のバンドにその面影は全くといっていいほど見出されない・・・ここでも没個性の
現代というものが反映されてしまっていることに本人たちは気づいているだろうか?


とにもかくにも60年代の崇高な音楽家たちを蹴散らした彼らは、70年代を君臨して
いくこととなるのだが・・・

ここで不思議なことがある。
ファンならずとも今では周知の事実であるツェッペリンの成功だが、評論家やメディア
からはこの頃正当な賞賛を浴びていないということ。
米国のAM局などは時間的制約のため3分以上の曲はかけようともしなかった。
しかしリスナーからの要望やアルバムの驚異的な売上を無視できなくなった彼らは
「WHOLE LOTTA LOVE」のシングルカットを要求してきたのである。

4人はいかなる編集にも応じようとはしなかったが、しばらくしてアトランティックは
メディアからの要求に負けて編集版「WHOLE LOTTA LOVE」をリリースしてしまった。
現実にこれは最高位4位までチャートを駆け上がり、バンドとしても全キャリアの
中で類を見ないヒットとなったもののバンドにとっては妥協の産物以外のものでは
なかったのである。

これに気をよくしたアトランティックは英国でもシングルを発売しようとしたがグラント
の強烈な反対で次のような発表を行っている。

 この曲はアルバム・コンセプトの一環として書かれたものであり、ツェッペリン
 これをシングル発売するつもりは毛頭ない。彼らは英国でのシングル用に新曲を
 書いており、来週レコーディングする運びとなっている。

ここで公表されたシングル・レコードは実際には発売までは至っていないが、出て
いたら・・・・どんな作品になっていたのか、今となっては聴いてみたい気もする。


この3度目のツアーで彼らは思いがけないことで頭を悩ませることになった。
ステージでの演奏セットの変更、けっきょく「YOU SHOOK ME」を外したかわりに
」から「HEARTBREAKER」、「WHAT IS AND WHAT SHOULD NEVER BE」、
「MOBY DICK」、「BRING IT IN HOME」の4曲を取り上げた。

このため3曲増えた演奏セットは2時間以上にも及ぶものとなり、よりライヴでの
緊張感をアップさせるものとなった。
曲の選定をしたペイジは・・・

 どれを落とすかなかなか決まらなくて。「DAZED AND CONFUSED」みたいな
 決めの曲を落とすわけにはいかないから自然と時間が長くなってしまった。
 お客さんにはずいぶんとウケがよかったんで安心したけど。

と語っている。
これは自分たちのどの曲にも自身を持っていた彼らならではの悩みと言えるか
もしれない。

同時期にデビューした BLIND FAITH も一度きりのツアーを行っているが直後
に解散、米国でのコンサート・シーンを駆け上る彼らの勢いは誰にも止められ
そうになかった。

                                    (つづくw)


【さてさて】
70年代にさしかかろうとするこの時期、私はまだフォーク側の人間でしたw
もちろんツェッペリンの名前は知ってたけど、どちらかというとS&Gとかのほう
を聴いてましたからね(^^)
この後S&Gの解散を機にロックも聴きだしていくわけで・・・実際にアルバムを
買い揃えていくようになるまではあと2年くらいかかりますw、なぜなら・・・

本文中でも触れましたが、ジャンルは違えど後世に名を残す大物が目白押し。
いい時代だったんだなぁ・・・・あと10年、いやあと5年早く生まれてたら今とは
また違った音楽体験をしていたと思います。
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by shika_monologue | 2005-06-22 03:19 | 鉛の飛行船の話 | Comments(3)