カテゴリ:鉛の飛行船の話( 60 )

躍進

1969年10月22日、貴方は何をしてましたか?(もうええっちゅうねんw)
これは私が最初に買ったツェッペリンのアルバムです。

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このアルバムを「ヘヴィメタル」の元祖だという人がいます。
もともとジャンル分け自体があまり好きではない私ですが(便宜上、そのほうが
説明しやすいから分けてますがねw)少なくとも「ヘヴィメタル」なんて薄っぺらい
ジャンルに入れてほしくない一枚ですね。

ファーストで見られたドライブ感とはまた違って、全曲に緻密に計算されたペイジ
のセンスが散りばめられてます。
プラントもこのアルバムから契約上の問題も解消し、堂々とクレジットされるし。

確かに音はハードです、うねってます。
ペイジのギターがめいっぱいフューチャーされてるし、プラントも一枚目に比べる
とリラックスして本来の持ち味を出してるし、リズムセクションはますます重厚に
なってまさに「ロック・アルバム」といった感じ。
これ以降でツェッペリンのアルバムとしては「プレゼンス」なんかがギター主体
ですが、初期ではこの2枚目がそうですね(^^)


WHOLE LOTTA LOVE
長くライヴのトリをつとめたこの曲、ステージではいろんな曲をフューチャーしな
がらメドレー的に展開されます。
「DAZED AND CONFUSED」でも一部使われていたテルミンなる楽器(?)が
本格的に使われた曲で、当時レコードで聴いたときは絶対ジョンジーの鍵盤の
音だと思ってました(^^;)
映画でペイジが手をひらひらさせながらコントロールする姿は印象的でしたねw
私もライヴでツェッペリンをやるときは必ず最後にコレやります♪
でも流石にテルミンは手に入らなかった(爆)

WHAT IS AND WHAT SHOULD NEVER BE
グッと雰囲気が変わってクリアサウンドで始まりますが、どことなくコンテンポラリー
なイメージがする一曲です。
ここで聴けるジョンジーのベースラインは秀逸、ツェッペリン・ナンバーの中でも
私のお気に入りのプレイですね。
後半、ハードに展開されていきますが、そのときに聴けるボンゾの「グォワ~ン」
っていうゴングの音がゾクゾクっときちゃいます(^^)
と同時に左右にパンニングされるギターのカッティングのなんとカコイイことか・・・
MaxonのFlyingPanを買った理由はこのへんに隠されていたりするw

LEMON SONG
これはね、面白い思い出があってw
フィジカル・グラフィティの「CUSTARD PIE」もそうなんだけど(コレについては
後日w)修学旅行とかあるじゃないですか?そんなときにバスん中でかけてたら
英語の先生に睨まれたという経験があります。
「squeeze my lemon」って歌詞があるんですけど、直訳すると「俺のレモンを
絞ってくれ」・・・ま、そゆことです(爆)
曲としてはブルース・フィーリングたっぷりで逆にこのアルバムでは目だって
ますね(^^)

THANK YOU
トラディッショナルな雰囲気のナンバー。
ジョンジーのオルガンのトーンが優雅な昼下がりのティータイムに似合いますw
このアルバムの中ではリラックスして聴ける曲でペイジのアコギ・ソロも気持ち
いい一曲。
コレをアコギで弾いてみてちゃんと音が出るようなら、押さえ方は間違ってない
と思うんで練習用に是非w

HEARTBREAKER
この時期のツェッペリンの本領発揮ともいうべきハードロックの定番。
心地よくオーバードライブしたペイジのギターは当時のギター小僧の憧れですw
ソロでナットとペグ(このへん判らん人には全然判らんなw)の間を押してベンダー
のような音を出してますが、これがまた真似するとそのあとチューニングが狂う
ので要注意です(^^;)
とにかくこの2枚目を象徴するような曲ですんで、一度はこのリフ弾いたことある
人も多いと思います。

LIVING LOVING MAID (She's Just Woman)
前曲からのメドレーで展開されるストレートなロック・ナンバー。
一枚目の「COMMUNICATION BREAKDOWN」と同じような位置付けと思います。
テクニック的にもそんなに難しいことやってないし、ペイジのギター入門編みたい
な感じでちょっとやってみるには絶好のナンバーですね(^^)

RAMBLE ON
これもアコースティックな感じで始まりますが、これはプラントがトールキンの
「指環物語」にインスパイアされて作った曲。
ん?トールキンの「指環物語」?? 「ロード・オブ・ザ・リング」じゃんっ!!!
このへんの曲が次のサード・アルバムへの伏線となってアノ悪名高きw銘盤へ
とつながっていきます。

MOBY DICK
ボンゾの魅力というか、そのプレイが存分に堪能できる一曲ですね。
ライヴでは約10分にも及ぶパフォーマンスが繰り広げられて、しまいにゃ手で
ドラムを叩いちゃうという離れ業をやってのけますが、スティックで叩く音に負け
てないというか、ともすれば手で叩いたほうがデカいかもしれないその音に
ブチのめされてしまいますw
やっぱりボンゾは凄いです(^^;) え~、真似できるドラマーさん募集中w

BRING IT ON HOME
なんともオーソドックスな3コードで始まるブルージーなナンバー。
プラントのハープもイイ味出してるし・・・と、油断してるとやっぱりハードな展開
に「う~ん」と唸らされます。
静と動の対比という感じで私もライヴでよくやりましたが、ハムバッキングじゃ
歪みすぎるんでシングルコイルのほうがやりやすいってのが感想でした。
このころにはペイジのトレードマークである'59バーストもライヴの主役になって
きますがレコーディングのときはどうだったんだろう?


このアルバムがもたらした影響はけっこうスゴくて、翌年「メロディメイカー」誌
の人気投票で常勝だったビートルズを蹴落として№1に輝きました。

さらにアルバムとしても米国のチャートで「アビー・ロード」を破って1位になって
ます。
このとき全米で7週連続№1となりましたが、これは後にボン・ジョヴィに破ら
れるまでハードロック・アルバムとしては最長記録でした。
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by shika_monologue | 2005-06-17 10:31 | 鉛の飛行船の話 | Comments(4)

内なる声

では、同時期に活躍していたミュージシャン達の声はどだったんだろう。

ほとんど聴いてないんだけど、聴いた限りじゃ悪くないと思う。ジミー・ペイジ
いつだって最高のギタリストだ。
                                  -ジョン・レノン

ファーストを手に入れたころはよく聴いていたけど、だんだん、プラントの声が神経
に触るようになってきて。たぶん俺にはちょっとアクロバットじみて聴こえるんだろう。
ジミー・ペイジとはヤードバーズに入る前からの知り合いだが、彼はいつだって
ひとかどのギタリストだった。
                               -キース・リチャーズ

昨今のロック・ギタリストを崇める傾向を見ているとジミー・ペイジはいつだって
その真っ只中にいたし、そういうのを発明したのも彼じゃなかったかと思う。
彼はフーの「ボールド・ヘッディド・ウーマン」という曲でファズ・ギターを弾いてる。
それをぼんやり眺めながらなんだこりゃ?と思った。でもそれが流行のサウンド
になることは僕にもわかった。
                               -ピート・タウンゼント

彼らのことはよくしらない。レコードは聴いたしライヴも見たけど、えらくやかまし
かった。なかには気に入ったのもあったけど、僕にはどうにもうるさすぎて。
とにかくやりすぎだとおもったね。
                               -エリック・クラプトン


ミュージシャンや評論家たちの思惑はどうであれ、ツェッペリンの未来は確固
たるものだった。
残る問題は彼らが歓声と賞賛をどう受け止め、この先どこに向かうかだった。

1969年初秋、アトランティックはホットな新人バンドに熱狂するあまり新作に
多大なる期待を寄せていた。
メンバーは腰を据えて新しいアルバムに着手したかったようだが、熱狂する
観客をはじめ周囲はそれを許さなかったのである。

クレジットさえされなかったバンドが徐々に頭角を現してくる、彼らは数ヶ月
の間をおいて再び米国ツアーを開始した。
ファースト・アルバムのリリース後、途切れることなくロードに出ていたのを
承知していたにも関わらず、周囲の期待は膨れ上がっていく。
このバンドは一枚目を凌駕する・・・最低でも匹敵する新作を届けてくれるの
だろうか?

多忙極まりないスケジュールの合間をぬってセカンドのレコーディングは続
けられた・・・ロンドンでリズムを録り、ロサンジェルスでヴォーカルを付け加え、
バンクーバーでハープをダビングして、ニューヨークでミキシングするという
具合にである。

心身ともに疲れていたペイジは余裕を持って客観的に新作を見つめるという
ことができなくなっていた。

 セカンドがファーストとは全く違うものになってしまったのが心配なんだ、もしか
 したらやりすぎなんじゃないかって。
 僕より上手いギタリストなんてゴマンといる、セカンドのギタープレイには少し
 がっかりしてるんだ。スタジオだとライヴみたいに観客と共鳴できないからね。
 窓越しに2,3人がこっちを窺ってるだけ、ステージのほうがレコードよりずっと
 いいプレイができてると思う。


しかし連日のツアーで朝から晩まで音楽漬けだった日々はこの新しい作品
には効果的に働いたようだ。
それは実際に聴いてきた皆さんもお判りだと思うが、ファーストより明らかに
攻撃的な作品に仕上がった。

ペイジはこうも語っている。

 ファーストを出した後で失速してしまうバンドが多すぎる。僕は出すアルバム
 全てが自分たちの世界を広げるものであってほしい、そうでなければ意味が
 ないと思う。

そして、その年の10月22日、「LED ZEPPELIN Ⅱ」が発売された。



【実は・・・】
私が最初に買ったツェッペリンのアルバムはセカンドでした。
直後にファーストも買いましたが、続けざまに聴くとそのサウンドの違いと
いうものがよく判りましたね(^^)
ブルージーだった一枚目に対して二枚目はホントの意味でツェッペリンの
音楽の開始点だったように思います。
てことで、次回はそのセカンド・アルバムに対する考察をw
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by shika_monologue | 2005-06-15 02:30 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

出る杭

その週、ビルボード誌のチャート1位はビートルズの「ホワイト・アルバム」。
以下、グレン・キャンベルアイアン・バタフライジェファーソン・エアプレインなど、
多種多様なアーティストがしのぎを削っていた。

ファースト・アルバムは初登場99位、2週間前にフィルモア・イーストで行った
コンサートがニューヨーク周辺での売上に大きく影響したのだろう。
彼らはヘッドライナーであったアイアン・バタフライを圧倒し、ついには業界から
追いやってしまった。
アルバムは最高位こそ10位(1969年5月17日)にすぎなかったが73週連続、
約1年半にわたってチャートを賑わすという離れ業をやってのける。
その後70年代に入ってからも何度かチャートに返り咲き、もはや驚異としか
いいようがない。

彼らはこの偉業をアルバムからのシングル・カットという手法を借りず、ラジオ
でのオンエアやマスコミの支持もないという状況で達成したのである。

しかし数少ない例外を除き、大半の評論家は無視するか、でなければ徹底的
に潰しかかった。
たとえば、ローリング・ストーン誌は70年代前半を通じて、彼らのやる事なす事
すべてに辛辣に批判したが、後にそれを大いに悔やむことになる。

LAのバンドのドラマーでもあった評論家のJ・メンデルスゾーンは3月15日号に
こんなレヴューを残している・・・

 彼らがクリームの解散によって空いた穴を埋めるつもりなら、まずはエディター、
 プロデューサー、そして彼らにふさわしい楽曲を見つけてくるのが先決である。

おそらく本人は名言のつもりだったんだろうが、今ではこのレヴューは嫉妬心
にかられた「迷言」の古典となってしまった。

ツェッペリンのデビューを好意的に受け止めた評論家はほんの一握り。
オズ誌に「ロックの転機」と書いたフェリックス・デニス、パンチ誌に「本年度の
ロック・アルバム決定版」と書いたクリス・ウェルチ、ほかにはリッチー・ヨーク
などがそうである。

だが、大衆は即座に彼らを受け入れた。
ペイジはバンドがその場で受け入れられたことについて語っている・・・

 僕らは数週間で1枚のアルバムを作っただけの経験もないバンドだった。
 そのアルバムにはたった一つの売りしかない、それはまじりっけのない熱意だ。
 僕らの成功の秘密は、このバンドがロックンロールに全身全霊を注ぎ込んで
 いたという事実、それとそうした初期のロックの興奮を再現できる能力にあった
 と思う。

後にプラントは当時を観察して興味深く語った・・・

 もう少しリラックスできて、もう少し堂々としていられたら、その分だけ僕にとって
 あのアルバムはいいものになってたと思う。
 フレージングは大差なかっただろうけど、あそこまで神経質な歌い方にはなら
 なかったんじゃないかな、僕はすごく萎縮していた、コンプレックスがあったの
 かもしれない。
 僕はほんとにここにいるんだろうか?ここにいていいんだろうか?みたいにね。


しかし、その後も辛辣な批評は続いていく。
お披露目に成功した米国でさえ「サポーティングアクト」としかクレジットされない
状況、英国ではなおさらで、「ヤードバーズ」という名前を使わないとブッキング
しないというプロモーターもたくさんいた。

もしペイジが自信家ではなく、それでも自分だけ目立ちたいと思っていたとしたら
もっと力不足なメンバーを集めてさっさとスター気取りのツアーを行っていたかも
しれない。
たしかに「ジミー・ペイジ」の名は看板にはなっていたが、最初の衝撃さえ大きけ
れば、観客はバンドが「ペイジとそのサポートメンバー」ではなく、大いなる才能
の集合体であると認めてもらえると信じていた。


ツェッペリンには「お客さん」なんていなかった、全員がバンドの売りだったんだ。
                                   -ジミー・ペイジ

                                       (つづくw)



【世の常】
いつの世も大いなる才能というものは歓迎されないものなんですね(^^;)
(これについては、だから支持するというわけではありませんが)ホリエモン騒動の
ときも彼は先達からボロクソに言われてました。
あの背景には先達たちの「若いくせに我々より稼ぎやがって」という嫉妬心がまるで
なかったと誰が言えるでしょうか?
たとえ本人たちに自覚がなくても、心の奥底に微塵もなかったとは・・・???
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by shika_monologue | 2005-06-11 00:18 | 鉛の飛行船の話 | Comments(1)

外伝

ビートルズストーンズ以外で最も重要かつ影響力があったバンドだ」
                        -ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌-

今では語られることもなくなってしまったが、ヤードバーズは「3大ギタリスト」を排出した
バンドとして有名である。

1963年、キース・レルフクリス・ドレヤポール・サミュエル=スミスジム・マッカーティ
アンソニー・トップハムをオリジナルメンバーとして結成されたバンドが前身だった。
しかし15歳だったアンソニーは両親の反対もあって脱退、代わりにエリック・クラプトン
加入し、バンド名も「ヤードバーズ」と変わる。

マネージャーの尽力もあり、ストーンズの後釜としてクロウダディ・クラブのレギュラーと
なるが、当時のR&B/ブルース・ブームを反映してチャック・ベリーボ・ディドリーなど
のナンバーが中心であった。

1964年、彼らはEMI/コロンビアからデビューするが、マーキーでのライブを収録した
アルバム「ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ」は今でも高く評価されている。
しかし、POP化が進んでいくバンドの中でそれを頑なに拒否しつづけたクラプトン
自己のブルースを求めて脱退、1965年、ペイジの薦めもありジェフ・ベックが加入する。

ベックの実験的精神はプラスに働き、彼らは米国で不動の人気を得る、コマーシャリズム
と実験性の融合、同化・・・この時期はヤードバーズにとってまさに黄金期だった。
1966年、そんな彼らの創造性が頂点に達したアルバム「ロジャー・ジ・エンジニア」が
発売されるが、直後にポールが脱退、ペイジがバンドに加わることとなる。

その後、ベックの脱退によって屋台骨を失った彼らはペイジが導いていかなければ
ならなかった。

リトル・ゲームス」によって始まった第3期ヤードバーズだがこの作品にはジョンジー
も参加している。
しかしマネージャーやプロデューサーが変わっていったバンドは方向性を失っていき
ついには同名のアルバムを発表して崩壊していくのである。
このアルバムは当時日本ばかりか本国の英国でもリリースされなかったが、ここには
後にツェッペリンで開花するアイデアが詰まっている。

機会があれば聴いていただきたい一枚ではある。


「結局は解散したが順風な時はなかなかのバンドだった、僕にとってはいい思い出と
悪い思い出がごっちゃになってるんだ」
                                     -ジミー・ペイジ


                                      (つづかないw)



てなわけで、今日はちょっと寄り道してしまいました(^^)
まあ、ZEPPの母体になったとも言えるヤードバーズについて少しは・・・ね♪
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by shika_monologue | 2005-06-08 00:06 | 鉛の飛行船の話 | Comments(4)

飛翔

1969年1月12日、貴方は何をしてましたか?私はハナたれてました(爆)
                                (あ、歳バレちゃうw)
いや~とうとう発売されちゃいましたね、一枚目♪(^^)

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問題のジャケットです、ジョン・エントウィッスルが語っていた・・・w
見事に墜ちてます、飛行船が・・・(爆)
(記事タイトルは「飛翔」なのにね)
最初に見たときは「モノクロでカッコイイな~」と思ったもんですが、よく考えたら
元になってる写真がモノクロじゃん!みたいな(^^ゞ

さてさて、ほとんどがライブ・レコーディングのこのアルバム、テンションはめちゃ
高いです。
それまでのメンバーのうっぷんが全部吐き出されたみたいなスリリングさがあり
まして、収録ナンバーは時代を反映してかブルージーなのが多いですね。
(ライブ・レコーディングといってもステージの模様を収めたわけではなく俗に言う
一発録りってやつですが)

全体の印象としては、やはりペイジのアルバムという感じです。
「元ヤードバーズのジミー・ペイジが新しいメンバーで創った」のが手にとるように
判ります(^^)
しかしジョンジーの正確無比なベースライン、ボンゾのちゃんと合ってるのに微か
に遅れているような感じさえする重量感溢れるドラミング、それらの織成す音の
壁にコレっぽっちも負けていないプラントのヴォーカル。
明らかに「LED ZEPPELIN」がそこにいます。


GOOD TIMES BAD TIMES
突然始まります、針を落としたらw
記念すべき1曲目、これから起こる何かの予感がバリバリです(^^)
でも若い、音が(爆)
ペイジのリフ創りの上手さ、その片鱗がすでに見られるし、ボンゾの3連バスドラ
など、聴き所は満載ですが荒削りで改めて聴くと「あ~みんな20代だったんだ」
って実感w

BABE, I'M GONNA LEAVE YOU
このアルバムでは珍しく随所にダビングされた緻密なサウンドを聴くことができる
一曲ですね。
もともとフォークシンガーであるジョーン・バエズのレパートリーだったんで全編に
アコギが絡んできますが、サビの部分ではけっこうハード。
この対比が後の楽曲に見られるエレクトリックとアコースティックの融合みたいな
ところを示唆してるのかもしれません。

YOU SHOOK ME
ウィリー・ディクソン作によるマディ・ウォータースの曲、ブルースです(^^)
スライド・ギターが気持ちよく響いて、プラントによるハープの音色もサスガ。
昔、ボトルネックの練習にこの曲やりまくったのを思い出しちゃってね、今でも
ほとんど覚えてますw
最後の方のプラントとペイジの掛け合いが好きな一曲ですね。
ちなみにこの曲、ジェフ・ベック・グループでベックが先に出しています、比べて
みると面白いかもですよ(^^)

DAZED AND CONFUSED
元を辿ればヤードバーズ時代に端を発するこの曲。
ライブでも一つの見せ場となり、弓で弾く場面は必ずといっていいほど映像に
登場します。
しかし、59バーストをですよ・・・弓で殴りまくってるワケですよ・・・(-_-;)
私ならもし弓で弾くときはヘッドにブランド名も書いてないようなバッタモンを
使っちゃうでしょうねw
まあ、その貴重な59バーストに穴開けてコイルタップとかのスイッチをつけよう
したペイジですから納得できるかも(爆)
展開はけっこうドラマティックで傾向としては「ノー・クォーター」なんかに繋がる
曲かもしれません。

YOUR TIME IS GONNA COME
珍しくしっとりした曲ですw
厳かというか、そんな印象を受けるんですよね~(^^)私的には・・・
ジョンジーのオルガンの音がね、目瞑るとそこにあるみたいで迫ってきます。
もちろんやってるメンバーがメンバーだけに一筋縄ではいきませんが、この
アルバムの中にあって特異というか・・・・曲つくりにジョンジーがいっちょかん
でるってのがよく判ります。

BLACK MOUNTAIN SIDE
中東な曲ですねw
アコースティックでインストゥルメント・ナンバーなんですが、タブラでヴィラム・
ジャザーニが参加していてこの音がまた気持ちいいんですよ(^^)
もともとそういう土着的な音が好きな私なんで(ケーナとか三線とかねw)、
この曲もめちゃ響いてきました。
ツェッペリンがハードロックっていうカテゴリで縛るには無理がある原因には
こういう面があるからかもしれません。
この曲では有名な「DADGAD」(実際はそれの半音下げ)というチューニング
が使われています。

COMMUNICATION BREAKDOWN
前曲から間髪入れずに始まるこの曲、こちらはめちゃオーソドックスなロック
ナンバーです。
サウンドもストレートそのもの、理屈抜きでノレますw
ブルースしてるこのアルバムではこの感覚はさらに強まって、ココだけ部屋
明るくして聴こうよ、みたいなw

I CAN'T QUIT YOU BABY
「YOU SHOOK ME」に続き、ウィリー・ディクソン作の曲、オーティス・ラッシュ
がやってました。
サスガにバリバリのブルース・ナンバー、ファースト・アルバムのレコーディング
ではテレキャスを主に使ってたペイジですが、そんなことがよく判る曲です。
しかし元セッション・ギタリストであるペイジの面目躍如というか・・・カラフルな
アルバムです(^^)

HOW MANY MORE TIMES
これはプラントがバンド・オブ・ジョイ時代から歌っていた曲、ペイジの色が多く
入ってるでしょうがたしかに他のナンバーとはちょっと毛色が違ってます。
シャッフルなリズムに絡んでくるプラントのヴォーカルがいいですね(^^)
ペイジが地下鉄のドアに手を挟まれて中指だったか薬指だったかを骨折した
ことがありまして、そのとき急遽演奏セットを書換えてやったのがこの曲・・・
って、十分難しいがなw


普通に言う曲レビューとは違うと思います(^^;)
でもね、どれもこれも好きな曲、もう体に沁みついちゃってるんでこれからも
こんな感じでうだうだ言っちゃいますね♪
(ちゃんとしたレビューってのはkawamukaiさんとことか、そいうのを見てきて
下さいw)

このアルバム、実はプラントのクレジットがありません。
出版社との関係でそうなっちゃったんですが、実際には曲つくりでちゃんと
参加してます(^^)

では、2枚目が発売されるまで、またツェッペリン物語でお楽しみください。
(いや、楽しめてるのか?w)
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by shika_monologue | 2005-06-05 08:06 | 鉛の飛行船の話 | Comments(8)

5人目

彼がいなければ今のツェッペリンの成功は無かったんじゃ?
というのは情報通の認めるところとなっている。

1968年11月、マネージャーのピーター・グラントは視聴用のカセット、マスター
テープ、ジャケットのアートワーク、そして胸いっぱいの期待をアタッシュケース
につめてニューヨークに降り立った。
目的はまだ無名である新しいバンドの世界配給契約を取りつけるためである。

業界への手がかりはファースト・アルバムの裏ジャケ写真、唯一このバンドと
ヤードバーズを繋げる証でもあった。


  【補足】
  ヤードバーズのサイドギタリストだったクリス・ドレアという男がいた。
  彼は崩壊していくヤードバーズ神話の真っ只中で、ペイジが新バンドを作る
  ときは協力しようと思っていたが、けっきょくバンドの終焉までは見届けず
  脱退してしまう。
  英国に帰ったドレアはその後フォトグラファーの道に進み、ペイジの新バンド
  が結成されたときアルバム裏ジャケの写真を手がけることになったのである。


ヤードバーズは米国ではCBSの子会社であるエピック、欧州ではEMIと契約
していたがグラントはそのどちらにも話を持ちかけていない。
商業然とした両者に対する彼の気持ちが計り知れるエピソードである。
その代わり、グラントはアトランティック・レコードのニューヨーク・オフィスに直行
する。
アトランティックの首脳陣はグラントの仕事の仕方、持ち込んだデモテープの
驚異的なサウンドをその場で高く評価した。
クリームアレサ・フランクリンなどの歴史的アルバムをチャートに送り込み、
60年代末のアルバム主体の音楽シーンを理解していたアトランティックは即座
にグラントと契約する。
契約金は約20万ドルといわれている、当時の新人バンドとしては破格の金額
だが、これはその後の活躍を顧みれば・・・ほんのはした金であった。

その後なぜかグラントと彼の弁護士はCBSの社長を訪ねている。
同席した重役はそのときの会議についてこう語った・・・

我々はヤードバーズのプロモーションに全力を尽くしたし、EMIから北アメリカ
における配給権を獲得していたから・・・だから当然ペイジの新バンドに対する
権利もCBSに移行すると思っていた。
しかし会議でツェッペリンに対する話題は一言も出てこない、とうとう社長が
「ペイジの話はしないのか?」と切り出したが、グラントは「ツェッペリンなら
アトランティックと契約を済ませてきた、ペイジはグループのメンバーとして
契約しているだけで個人としては何の義理も無い」と答えた。
ヤードバーズがお気に入りだった社長は激昂した、あの会議は一生忘れら
れないだろう。

ここでペイジとCBSについてのエピソードがある。
ヤードバーズ時代、欲にかられたCBSがライブアルバムを勝手に出そうと
したことがあり、それ以来ペイジはこの会社に対して愛想をつかしていた。

1968年も終わろうとする頃、バンドは5年間の契約を結ぶが、その中にこんな
条項があった。
それはクリエイティブ面に関して完全な自由をバンドに与えるというもの。
彼らのレコードはアトランティックの介入無しに製作され、アートワーク、広告、
パブリシティフォトなど、イメージに関わる全てはバンドの管理下に置かれる。
今でこそセルフ・プロデュースという手法は一般的であるが、その時代では
歴史的な契約だった。

お披露目を兼ねた北米ツアーは12月末、デンバーからスタートする。
新しいバンドをアメリカの観衆に紹介し、アルバムの売上に繋げるのが目的
だった。
同時に業界には視聴盤が配られたが、ヤードバーズ人気が高かった西海岸
での反応は大きく、デビューアルバムには5万枚以上の予約が寄せられた。
新人バンドとしては悪くない数字である。


そして1月12日、ペイジ25歳の誕生日から三日後に「LED ZEPPELIN」が
正式にリリースされた。

                                     (つづくw)



【予告】
なんてもんじゃないですが、とうとう一枚目が発売されてしまいましたんでw
次回はこのナンバーに対する「鹿の独り言」です。
あくまで「独り言」ですんでツッコミはなしね(爆)

kawamukaiさん、前回の・・・正解ですw
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by shika_monologue | 2005-06-03 02:36 | 鉛の飛行船の話 | Comments(2)

命名

あのままだと僕たちのやってることがウソになると思ったんだ
                              -ジミー・ペイジ-

ヤードバーズが最後に辿り着いた次元を遥かに超えていた
                              -ロバート・プラント-

4人はグループとしても、個人としても単なる「ニュー・ヤードバーズ」以上の
存在だったが、そのため新しいバンド名は当然、かつ早急に決める必要が
あった。

「LED ZEPPELIN」という名前が決まるまでの経緯には様々な説がある。
ペイジによると・・・

皆であれこれ考えてたとき何ヶ月か前にキース・ムーンが口にした名前を
思い出した。
まだヤードバーズで活動していた頃マネージャーがそれぞれにソロ活動を
やらせようとしたことがあり、ペイジはジェフ・ベックと組んだが、他のメンバー
は外部の人間にしようと考え、ニッキー・ホプキンス、キース、ジョンジーと
いうラインナップでセッションした。
そのときフーにうんざりしていたキースが「俺達でバンド組めないかな?」
と言い出した、キースはジョン・エントウィッスルとペイジ達とでバンドをやり
たがっていたのである。
当時は適当なヴォーカリストが見つからなくてそのまま立ち消えになって
しまったが、そのときキースが考えたバンド名が心に引っ掛かっていた。
なにかしっくりくる感じがして、「鉛の風船」とかの出来の悪いジョークに
通じるところもあると思った。

ジョンジーによると・・・

名前を考えたのはキース、もともとはセッションバンド用の名前だった。
そのバンドがツアーに出たところなんて考えただけで身の毛がよだつ、
なぜなら恐ろしいほどの個性をもった連中だったから。
結局バンドはモノにならなかったが、あの名前が忘れられなかった。

プラントの解釈では・・・

全然ウケない冗談って意味だろう、あんな名前を思いつけるのはキース
みたいな極めつけの○○○○だけだ。
今となってはけっこう皮肉っぽい感じがするが。


以上が「公式」な見解、しかし元フーのジョン・エントウィッスルは後に
こう語る。

キースと俺で何度かバンドを抜けようとした時期があって、そのとき俺達
で組む新しいバンドの名前を閃いた。
ファーストアルバムに炎に包まれて墜落する飛行船を使うってのも同時
に思いついた、後になってキースが自分のアイデアだって言ったときは
えらく腹が立った。
ペイジがあの名前を使うって聞いたときもいい気持ちはしなかったけど、
結局はそれほど気にならなくなってしまった。
なぜなら、もうあれこれ言ってもしょうがないくらいの存在になってしま
ったから。


こうして新しい名前、スタイル、メンバーが固まると、バンドとして何より
急がなければならなかったのがデビューアルバムのレコーディングだった。

                                  (つづくw)


【まだかよっ!w】
やっとバンド名が決まりましたねw
でもまだファーストアルバムは出ません、たぶん次回も・・・・・(^^ゞ

バンド名といえば、私が高校時代に創ったバンド(ツェッペリンのコピー
バンドなんだけど)の名前が○○○○○○○。

さて、なんだったでしょう?(ヒントは文字数w)
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by shika_monologue | 2005-05-31 00:43 | 鉛の飛行船の話 | Comments(7)

集結

ジミー・ペイジが新しいヤードバーズ結成のためにメンバーを探している・・・

噂はほどなく業界に広まっていった。
新ヤードバーズのメンバーとして最初にペイジと組むことになったのはベース
ジョン・ポール・ジョーンズ
クルセイダーズ時代からペイジのプレイを見てきたジョンジーはヤードバーズ
の「リトル・ゲームズ」のプロデュースにも関わっていた。

断続的にセッションの仕事を始めてから3~4年たった頃、ジョンジーは月に
4~50曲アレンジの仕事をかかえ多忙な日々を過ごしていた。
最後には白紙の譜面にむかって悶々としている状態だったが、妻からいっそ
どこかのバンドに入ったら?と勧められる、「ジミー・ペイジが新しいバンドを
創るそうよ」。
さっそくペイジに電話したジョンジーは「ベーシストが要るなら連絡をくれ」と
いった・・・・後に世界に名を轟かせることになるビッグバンドがそんなふうに
始まったとはなんと不思議なことだろう。

次にペイジはヴォーカリスト候補について頭を悩ませる。
幾人か目星をつけた存在はいた・・・ヤードバーズがストーンズと共に英ツアー
をやったときに耳にした印象的なシンガー、テリー・リードもその一人。
しかし彼は一足違いで他のミュージシャンと契約を交わしてしまう。
もうひとつの可能性はスモールフェイセスのシンガー、スティーブ・マリオット
だったが彼もまた契約に縛られていた。

しょうがなく他のブォーカリストを探し始めた折りも折り、旧知のプロデューサー
トニー・セクンダのアドバイスを求めてロンドンにきたシンガーがいた。
その頃セクンダは複数のバンドのプロデュースを抱えていて多忙だったが、
ヤードバーズが解散するという噂は聞いていて、紹介することになる。
それがロバート・プラントだった・・・

「ロバートは最高だった」・・・ペイジはいう。
生で聴いて、もらったデモテープを聴いて、この男の声には飛びぬけた個性
的な資質があると確信した。
一文ナシだったプラントは誘われるままにペイジと話し合い、その斬新な
アイデアに頷くばかりだった。

こうしてラインナップが決定していく中、残るはドラマーである。
プラントはバンド・オブ・ジョイ時代の旧友を熱心にペイジに勧めた、男の名は
ジョン・ボーナム
新しいバンドに必要だったのはリズムがしっかりキープできて、しかも強烈な
アピールを持ったドラマーだったが、プラントはその条件に合うドラマーはただ
一人、ボンゾしかいないと思ったのである。
その頃ボンゾはティム・ローズにツアーに出ていたが、プラントはツアー先に
追いかけてまで熱心にボンゾを誘った。
プラントは知らなかったが当時ボンゾには他からも引き合いが来ておりえらく
悩むことになる。

「ジョー・コッカーからもオファーがあったし、クリス・ファーロウからも・・・しかし
ジミーがいいギタリストだということは知ってたし、ロバートがいいシンガーだと
いうこともよく判っていた、だからコッカーやファーロウと組むよりこっちのほう
が性に合ってると思ったのさ」


こうして集まった4人は小さなスタジオで早速セッションをする。
部屋中が爆発したようだった、「そうそう、これなんだよ・・・」4人は確かな
手ごたえを感じていた・・・
ヤードバーズとしての契約が残っていたため急遽「ニュー・ヤードバーズ」と
名乗っていくつかのギグを消化した4人は新しい名前が必要だと感じ始める。



すでに過去のものとなっていたヤードバーズ、4人の奏でる音はそれ以上
の存在であった。

                                    (つづくw)


【カミングアウト】
最初は普通にZeppのアルバムについて自分勝手にアレコレいう予定だった
んだけど・・・・なんで歴史解説になってるんだろう?(爆)
ちなみに本文中で書いたトニー・セクンダがプロデュースしていたバンドの中
に以前「私的・プログレッシヴの系譜」にも登場した、プロコル・ハルムがあり
ましたw


いやぁしかし・・・ひとつ前の記事とのギャップはなんなんだ?・・・(^^ゞ
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by shika_monologue | 2005-05-27 00:05 | 鉛の飛行船の話 | Comments(14)

ツェッペリン前夜

ジョン・ボーナムが愛妻パットと若くして出会い、結婚したのは17歳のとき。
ドラマーとしてのキャリアに本腰を入れるか、諦めてほかの職に就くか・・・
生活はけして豊かではなかった。
その2~3年前にプラントと出会っていたボンゾは、ちょうどプラントが在籍
していたバンドがドラマーを募集していたこともあり行動を共にする。
その後もバンド・オブ・ジョイなどでプラントと組んでいたが68年、しばらく
音信不通になっていたプラントから新しいバンドのドラムをやらないか?と
誘われることになる・・・

芸能人の両親の間に生まれたジョン・ポール・ジョーンズは幼いころから
ショービジネスの匂いを嗅ぎ取っていた。
始めてベースと手にしたのは14歳のとき、17歳のときにはプロにならない
かと誘われバンドに加入している、しかしベースギターはまだまだ軽視
されておりアンサンブルの中でも埋もれた存在。
そんなジョンジーが影響を受けたのは60年代中盤のモータウンの音作り、
ベースの持つ広範な可能性を示したモータウンサウンドはそれまでの
常識を覆すに十分だった。
その後、プレイヤーとしてよりアレンジにも才能を現すジョンジーは数々の
キャリアを構築していく。
そして68年夏、それまで培ってきた技量を発揮できる「何か」があれば、
すぐにでも身を投じる覚悟は出来ていた。

d0021258_037156.jpg


ロバート・プラントの両親は息子が髪を伸ばしロックンロールに夢中になる
ことに好意的ではなかったが、だからといって無理やりやめさせるような
こともなかった。
その頃ブルースと出会いその音楽形態に魅せられたプラントは傾倒して
いくが、そのようにしていろんな音楽を吸収していったプラントは自ら在籍
するバンドで何度かボンゾと組むことになる。
しかし数回のギグを行ったバンドはその後バラバラになってしまった。
ヴォーカリストとしてもハーププレイヤーとしても非凡なものを持っていな
がらタイミングを逃し、行き場を失って思い悩んでいたプラントの情熱は
直後思わず形で報われることとなる。

ジミー・ペイジの両親は息子がポップスとロックンロールに夢中になって
いくのを認めるばかりか励ましもした。
とはいえ学校へ行くとギターは没収、午後4時には返してくれるものの
学校ではギターは教えてくれない、自分で勉強するしかないのである。
しかし父親の応援もあって新しい試みやサウンドを追求していったペイジ
はクルセイダースのギタリストを経てセッションプレイヤーとして活躍する。
こうして数々のセッションをこなし、いっぱしのスタジオミュージシャンと
して名を馳せていったペイジにヤードバーズのメンバーとして誘いが来る。
その頃リードギタリストとしてジェフ・ベックを有していたバンドでの役割
はベーシスト、その後確執によりベックがバンドを去ってからはギタリスト
としてフロントマンとしての地位を確立していった。
しかしバンドはどんどんペイジの思惑とはかけ離れていき、ついには最期
を迎えるのである。

68年7月、ペイジは岐路に立たされていた・・・セッションプレイヤーとして
の道に戻るか、それとも・・・・


今はただ、前者を選ばなかったことに感謝することしか私にはできない。

                                   (つづくw)



【追記】
ほんとのところ、ここんとこ書き出すと凄く長くなるからかな~り端折って
ます(^^) 詳しい方には判っちゃうでしょうが「違うだろっ!」ってツッコミ
はナシの方向で・・・
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by shika_monologue | 2005-05-24 00:42 | 鉛の飛行船の話 | Comments(5)

プロローグ

1874年、ドイツの発明家フェルディナンド・フォン・ツェッペリン公爵は大空を旅
することを夢見て飛行船の着想を得る。
しかし当時は見向きもされず、ようやく援助を得られるようになったのはその後
四半世紀を過ぎようとした時期であった。

もともと公爵は平和を愛する人物だったが、世の中の流れには逆らえず飛行船
が活躍したのは兵器として。
平和利用のための自分の発明品が戦争に使用されるのを公爵はどんな気持ち
で見つめていたのだろう。
d0021258_0192013.jpg

戦後、大量輸送の選択肢として注目された飛行船はさまざまな様式のものが
創られ、当初の目的通り大空を闊歩することになる。
優雅に舞うツェッペリン型飛行船、しかし運命は皮肉なものでその構造ゆえに
致命的な事故が発生した。


d0021258_0195023.jpg

1937年5月6日、LZ129ヒンデンブルグ号が米ニュージャージー州レイクハースト
上空で電線に引っ掛かり塗装に引火して炎上、当時水素により浮力を得ていた
飛行船は成す術もなく空中で大爆発を起こして墜落した。
(近年映画化されたこともあり、このエピソードは有名である)。


こうして公爵の夢は惨事とともに破れ、ごく少数を除いて飛行船は空から姿を
消すこととなる。

それから30余年後の1969年1月12日、ふたたび轟音を響かせて大空に舞い
上がるまで。

                                       (つづくw)



【次回予告】
これからしばらく「音楽・楽器の話」はこの話題(ても飛行船の話ではないw)、
知らない人にはチンプンだし全くの独り言でしょうw
などといいつつも、このブログを立ち上げた目的はもともとこのためだったと
言っても過言ではないゆえ、お許しを(^^;)
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by shika_monologue | 2005-05-21 00:21 | 鉛の飛行船の話 | Comments(4)